今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

ネット的な文章ーー十分日記145

日本語が大きく変化した時期がいくつかある。

有名なのはもちろん近代化、明治維新の前後である。

文学がもっとも変わったのだが、文語体から口語体になった。いつも使っている平易な言葉で表現するようになった。夏目漱石は口語体で書くことが多いが、森鴎外は口語体でも書く。

国民全員が使える共通語を半ば強引に作った。その当時、その共通語で話している人はいなかった。東京の人でも共通語で話していなかったらしい。大阪の人が、東京の人が話す言葉を半ば嘲るために「東京弁」と表現するが、当たっている。

 

明治維新より昔、大きな変化があったのは平安時代から鎌倉時代だ。

他の時代にあったかもしれないが、私は知らない。

平安時代の言葉、文字は、京都の貴族が使っていたもので、一部の人間だ。

それから武士の時代になり、貴族の時代よりも簡略化された表現をしないと、武士には使えない言語をは次第に廃れて行かざるをえなかった。劇的に変化した。

国語の問題は平安時代の古文が多いが、それははっきりいって読みにくいからだ。現代文でも一緒だ。読解しやすい問題では問題にならない。

流通のスピードが上がったとも言える。

つまり、狭い世界でツーカーのなかで使用していた言葉ならば、複雑で粋なもので構わないが、外部の世界から人が入ってくると、その人たちも使用できるように変化する。

 

今もそういう時代で、一部の人間のものであった言語活動が、ネットの影響で開かれた。

多くの人が参加するようになり、ルールも変わった。もっとも、せっかく手にした技術の使い方が拙い者もいるようだが。

そして、言葉も劇的に変化しているに違いない。

おそらく、そんなもののために、簡略化され、使い勝手が良くなっているはずだ。

卑近な例で言えば、「草生える」。これは全く逆の意味で使用されている。ネット上では「愉快」ということだろう。ただ、使われていることの多くはまったく笑えない。

もともとは、潰れそうな工場や店が草だらけになっているのをイメージする。つまり、「寂れている」というイメージだ。

簡単な例だがこのようなことは起きている。

 

以前、女子中学生が先輩の女性たちが使っているネット言語を駆使しして、ブログを運営していた。最近更新していないようだが。若い人は感度が高い。

それらのネット的な言葉の使い方を洗練させて、美しい文章が作れないだろうか。そう最近夢想している。昔ながらの言葉と、ネット的な言葉、キーボードを使用して紡ぐ言葉、それらの境界がどこかにあるのだと思う。それを探したい。

 

ただ、流行り言葉を羅列するだけの文章。

昔から流行り言葉を使うのは嫌いだった。単に流行り言葉を使った文章。

その先に美しい文章がある気がしてならない。