今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

エヴァンゲリオンと宇多田ヒカルと日常と世代と

 

  まさりんです。

  なんやかやと雑務がやってきて、それに忙殺されている。そうならばよいのだが、やることが文章作成だったりするので、「忙殺」というほどではない。そういえば、こういうのを繁忙期というのだが、この忙しいを分解すると「心を亡くす」という意味になるので、使うのはよせという企業トップの元に働く友人がいるが、トップが交代し、普通に繁忙期という言葉を使っている。
  文章を時間をかけて書き出すと、この言葉のように「心を亡くす」のである。他に気が回らなくなる。ブログもおざなりになる。もっとも、このブログはもうやめても良いのかもしれない、とも思う。このブログを続けてきたことは、間違いなくプラスになっているとこの秋の諸々で感じた。初めはこのブログは千字縛りというルールで書いていた。これはどちらかというと、千字までというニュアンスではなく、千字は最低限書こうという意気込みだった。だから、長くなる分には別に構わんだろうと、どんどん長い文章になった。それに描き慣れていったような気がする。さらに長く、複雑な文章を書こうと思ったら、ブログは向いていないのかもしれない。それは、「博学多災」の著者、queen09(id:disappear9803)さんの書いた通りだろう。ただ、それに変わるメディアがnoteなのかどうかは、私にはわからない。ちなみに、彼の書いた半世紀はとても面白かった。(許可なく書いてしまって申し訳ないです)
kakuyomuに出ている文章をはなんとなく、自分が書く文章とはジャンルが違う気がする。それは質的な優劣の話ではなくて、土俵が違うという意味だ。それにこれまで書いてきた記録を放置してしまうのももったいない。加えて、他のブログサービスもやってみたい。ただ、どうも私は文章のキャパシティが狭いらしく、一つの文章を作成すると、二つ三つと違うテーマの文章は書けないらしい。だからどうしようか逡巡してしまうのである。
 

  そんな日常を送りながら、ちょろちょろと映像作品やラジオ番組を流している。今、「エヴァンゲリオン」がNHKーBSで、東京MXでは「ガンダムSEED」を放映している。多少時期は前後しているが今となっては同時期の作品と言って良いだろう。自分にとっては下地になっているものが同じだからだ。あのあたりのジュブナイル(大人と子供の間の状態)文化はその対象は中高生だろう。そのあたりの人物、主人公をどう描くかで作品の特徴が決まる。
  私はZガンダムをリアルタイムに見た世代である。あの主人公はハイスクールのカミーユ・ビダンだが、これがまあ皮肉れている。性格が複雑怪奇な文様を描いている。カミーユの性格造形は、あの時代の中高生にとってはリアルである。カミーユは絶対にあの頃の尖りまくっていたダウンタウンが好きな子だろう。ボケてもいない東野幸治を追いかけていって、羽交い締めにしてあんかけやきそばのあんをかけていた時代だ。もう意味不明だった。あれを面白いと思うのは嗜虐的嗜好があるだけで、面白さがわかっているというのとちょっと違う。そういうのを「わかった感じ」になって好きになっていたと思う。カミーユは内省的であり、それと同時に凶暴性も持ち合わせていて、クワトロ・バジーナと名乗っていたシャアですらぶん殴った。
 

   一方で、エヴァンゲリオン碇シンジ綾波レイはひたすら内省的である。キレてもあまり怖くない。怖くないのに、被害は甚大だ。あのカミーユとは違う両極性は、当時の中高生は非常にリアルに感じたのではないだろうか。ああいう感じだった。デスノートとか好きになりそうな。加えて、宇多田ヒカルもそうだ。宇多田ヒカルの曲を全部聞いたわけではないが、どこか内省的な空気を感じる。近代の私小説の匂いだ。私は当時の大学生で、友人にすすめられても、エヴァンゲリオンは見なかった。見ていてやはりそう思うのだが、当時も断片的な情報を友人から聞いて、庵野秀明は特撮をやりたい人だと感じた。そのくせ、使徒だと色々なギミックを加えているのが気に入らなかった。

   さらに幼少期、私はウルトラマンが好きな少年だったらしい。仮面ライダーは嫌いで泣き叫んで拒否した、と母親から聞いたことがある。以前書いたが、小学校低学年も含めてそれ以前のことはほとんど覚えていないから、伝聞になってしまう。ウルトラマンも実はただ怪獣とウルトラマンが戦うのではなく、その裏設定は複雑怪奇だったりする。だから、よく考えれば当時見ても面白いと思ったのかもしれない。本当に皮肉れていたのだろう。それも映画の感想で書いた。

  おそらく「アオイホノオ」を見なかったら、シン・ゴジラもみなかったろう。自分より下にも自分たちがガンダムが好きだったように、強烈な求心力のある作品があって、今のエンタメの消費を支えている、というのは頼もしく興味深い。
とにかく、優れたアニメ作家(宮崎駿は別の世界に生きている)は若者の描き方が秀逸であるというのが特徴だ。エヴァンゲリオンでは、主人公は国家? の特殊任務を背負うわけだが、律儀に外部の学校に通う。この「何があっても学校は存在し続ける」という感覚も当時の若者ならではだろう。普通はネルフのなかに特殊学級ができるだろうし、そのシーンは割愛されるだろう。

   ところがこれが近年変化する。Zガンダムは二千年代に作り直されるが、カミーユ・ビダンの性格は、奇妙なほどまっすぐになっていた。その後、ガンダムの総監督である富野由悠季は「Gのレコンギスタ」という作品を作るのであるが、この主人公も恐ろしく素直で、まるで屈折がない。それに加え、マザコンだ。いや、これが今の若者の心象風景なのだ。だから、我々からすると超マザコンでも、今の若者にとっては普通なのである。そして、小学生か、というくらい幼稚だ。

   聞いたことがあるが、数年前、高校で進路指導の三者面談が行われた。男子と母親と教師である。ほとんど、教師を無視して、息子と母親がにこやかに談笑していたらしい。岡田斗司夫などはこの作品を酷評していたが、たぶんこの変化に気づいていないのだろう。
   このような感性を代表するのが、「君の名は」の新海誠なのだろうか。見ていないからなんとも言えないし、見に行く気もない。宇多丸のラジオを聴いていて、どうなんだろうなと思った。宇多丸の評価は褒めながらも、「色々な要素を盛りすぎ」な映画だというものだった。

 

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