今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

「風の歌を聴け」 村上春樹 感想文(デビュー作品レビューシリーズ)

風の歌を聴け―Hear the wind sing 【講談社英語文庫】
 まさりんです
 今回は(チェコ好き)(id:aniram-czech)さんの村上春樹のについてのブログを読んでいて、無性に読みたくなったので「風の歌を聴け」の感想文を書いてみたいと思います。
 この本を初めて読んだのはいつだったでしょうか。三十代に入ってからだと思います。眠れない夜に、本棚にあったのをつらつらと読んだのが初めてだと思います。(チェコ好き)(id:aniram-czech)さんと同じで、私も村上春樹はエッセイの方が好きです。小説の村上春樹は、「プロだな」というのがいつも思う印象です。たぶんだけど、ファンの好みを熟知していて、そこからはみ出さないように書くんですね。そういう印象だったな。馬鹿にしているのではなくて、そうとうな技術があるな、と感心しているという意味です。ただ、そこから書き手を見たいと思う事ってあるでしょ。そういう意味ではちょっと物足りないかな、と思います。私ごときがいうのもなんですけど、とても上手だと思います。あ、あと翻訳本がすばらしい。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は稀代の名訳本だと思います。
 では登場人物から紹介します。(一応、この本を読んだことのない人向けに書こうと思ってます)
 

 

 

 

<登場人物>
・主人公「僕」
 東京にある大学の大学生。生物学専攻。海辺の街の出身。これまでのセックスの経験は三人。
・鼠
 ある日出会った友人。父親が金持ち。戦中は虫除け、戦後はあやしげな栄養剤、朝鮮戦争のあたりから洗剤を売るようになり、財を成す。親の影響からか、金持ちにいい感情を持っていない。大学は退学し、小説家を目指そうと考えている。
・「彼女」
ジェイの経営する「ジェイズバー」で僕と出会う。トイレに転がっていて、僕が家まで送る。小指がない。8歳の頃、掃除機に挟んで消し飛んでしまった。
・ジェイ
 「ジェイズバー」のオーナー。中国人。
 
 細かく書くともっと多くの人が出ています。主要な人物だけピックしました。次はあらすじです。
 
<あらすじ>
 とはいうものの、それほど大きな筋というのはない。1970年の夏に「僕」が帰省した海辺の街(たぶん神戸)で起こったことをまとめたもの。主人公と鼠はたぶん共通の友人を介して出会った。鼠の運転する車で公園に突っ込んだり、待ち合わせ場所であるジェイズバーで管を巻いたり、退屈な日常を過ごしている。そんなある日、顔を洗おうと洗面所に入ると、「彼女」が床に転がっていた。介抱するついでに、彼女のアパートまで送った。主人公曰く彼女に手を出していないらしいが、本当は・・・・・・。 当時のラジオ文化や音楽を紹介しつつ、若者の生活を描く。 さて、感想を書こう。 村上春樹の小説はなぜか韜晦している(ごまかしている)ような感じがする。村上春樹自身のがあまり反映されてない気がするのだ。これは様々な小説で感じるものだ。たとえば名著「ノルウェイの森」でもそう感じる。だからか、この作品も芥川賞の講評では高い評価にならなかった。しかし、いまもファンは多い。なぜだろうか。 この作品を細かく見ていくと、冒頭文でこの作品を規定している。少し抜粋してみよう。
 
 今、僕は語ろうと思う。 もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り青得た時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局の所、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
 
 
 この部分から、このお話が能動的に何かを変化させようという話ではない、ということが規定されている。
 この部分が韜晦しているように感じる場所だ。つまり、(この作品では例外的に主人公は学生運動に参加しているということになっているが)世間的な抗争や葛藤とは無縁なところに生きているような印象を受けるのだろう。
 
 ハートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった。読めばわかる。文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。しかし、それにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人でもあった。ヘミングウェイフィッツジェラルド、そういった彼の同時代人の作家に伍してもハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う。ただ残念なことに彼ハートフィールドには最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であると言うことはそういったものなのだ。
 
 ハートフィールドというのは主人公が影響された架空の作家である。文章を書く上で影響された人物が虚構なのであるから、主人公の書いた文章というのもウソの多いフィクションだということなのだろう。結局、ハートフィールド=村上春樹なのかもしれない。なんとなく、「これから小説を書いていこうと思うのだが、自分はそこそこ文章は書けるが、大作家になるようなタマではないよ」と村上自身が自分のことを考えているようにも思う。後段にいかに精力的にハートフィールドが大量の文章を不毛に書き続けたかということが書かれている。この表現が自分があまり才能がないと自覚しているということになるのだろうか。
 最終的に不毛な闘いを続け、エンパイアステートビルから飛び降りたという人物である。村上もこれから小説に殉じていくという宣言なのだろうか。
 
 とにもかくにも、これは村上春樹の処女作であり、この作品を起点にして、彼の作品群は形成されて行く。そう考えるとその作品群の性格はこの書によって規定されていると言ってもよい。
 一番の特徴は、上記した「この話が何かを変化させようという話ではない」という部分にある。

 読んでいておもしろいのは、人物が多くの経験をして、成長していく話である。成長の過程の葛藤などに読者は感情移入していくのである。
 逆に印象として村上春樹の小説は周辺の小説なのである。変化や事件の渦中には彼らはいない。どこか中心とは距離があり、それを結構冷静に見つめているような、冷めた感じがする。が、現実問題、多くの人間が幼少期から思春期手前の身体的な成長が終了した後は、ほとんど成長もせず、やれることをやって生きている。であるのに、文学上はそういう人物設定はそぐわないような気がしてしまう。だから、結果として中心から距離のある人物を設定する場合、一工夫が必要なのである。

 工夫の一つは諦めてしまうこと。成長や出世などを放棄した人物を設定すると、必然的に社会的な事象からは遠ざかることになる。そうすると、同じような小説は書けないこともないが、どこかみみっちい小説になるのかもしれない。
 
 もう一つは物理的に距離がある人物だ。たとえば、東京で大きなテロ事件があってそれをロンドンで聞いた場合、東京のテロより自分の日常が大切である、というのは自然な設定だ。しかし、その場合ことさらに東京でのテロ事件を引き出す必要もなくなる。
 
 また年齢を極端に老いたものにするか、幼くするという手もある。引退した老人や幼子に対し、成長などは無縁になり、周辺からの視点になる。
 
 会社などの傍流の人物に設定するという手もある。島耕作の初期がそうだろう(読んだことないけど)。しかし、最終的に中心に至らなければやはりおもしろい話ではなくなる。
 
 そして最後の手がプチブルを設定することである。プチブルである場合、努力自体が不必要なものであり、成長も必要なくなる。成長しなくともいいだけの資産があれば、それを維持することだけを考えればいい。本書では鼠というのがそういう存在だ。のちに彼は小説を書き続けることになる。この辺りがファン以外の反発をかってしまう部分だ。
 
 最近では「色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年」への太田光の反発につながる。だが、作品設定上、このプチブル的な設定は村上文学には必要なのだ。それにファンはプチブル的な設定よりも、中心からの距離のあいた人物に感情移入しているのだと思う。
 
 学校のクラスでもそうだろう。中心にいる人物とそうでない人物。二種類に大別すれば、周辺にいる人物のほうが多いのである。もちろん学生時代に中心にいたからって、そのまま社会で成功するかどうかは別の問題だ、ということは書いておこう。(だからいじける必要はない)その大勢が村上文学を指示する可能性があるのだ。これはどこのくにでもそうだろう。人気があるのはそのせいだと考える。一般庶民が関係がある社会的なできごとなど、増税などの諸物価の値上がりくらいなものだ。
 
 結局、何も変化せずに主人公は東京に戻っていく。
 それがなんとも切ないのである。しかし、現実だ。
 
 さて、簡単に読書感想文を書いてみました。
 改めて久しぶりに読んで思ったことは、「こいつらのしゃべってることって、全部ウソっぽいよな」ということでした。それはなんでなんだろうと考えていたら、思わぬ方向へ思考が行き着きました。ファンの方々は怒らないでね。
 
 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 
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