今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

夢を追う少女

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マララさん こんにちは: 世界でいちばん勇敢な少女へ

 まさりんです。

 

 

 

 縁あって、マララ・ユスフザイさんのスピーチを転記していた。それは新聞に載っていたもので、とある事情で必要となったのだ。不思議なもので、さらさらと読んでいても分からないものも、転記するだけで、細部が理解できたりするものだ。是非難解な文章があったならば、書き手の立ち位置に身を置いて写してみるといい。なんとなく、文章の細部や書き手の気持ちが分かったりするものだ。

 話が飛んだが、マララさんはご存じの通り、2014年のノーベル平和賞を受賞した。17歳という最年少の受賞だ。もちろん、政治的に利用されているとか、地元のタリバンではない人々は困惑しているなどの噂がある。ここはそれをいったん置こう。

 彼女は14歳のとき、教育を受ける権利を求めた。その結果、タリバンの兵士に頭を打ち抜かれる。なぜ命を賭してまで教育を受ける権利を求めるのか。日本人は結構「勉強なんてやっても無駄だ」とかいう人間が多い。大抵、勉強が嫌いな人が言うのだが。大人になった自分の生活が成立しているからといって、学生の頃に勉強をしなくてもいいということにはならない。彼女の場合、その生育環境が教育への熱意につながっていると考える。父親が私立の学校の校長先生なのだ。恵まれた教育環境にいたことが想像できる。やはり、勉強をしてきた人間だから、教育の大切さが分かるのだろう。

 逆にタリバンなどの原理的なイスラム教のグループはなぜ教育、特に女子の教育を否定するのかといえば、どうしても経典の教えと西洋式教育がぶつかるからだろう。アジアでも儒教の影響が深刻だった地域は同じような状況になった。両者に共通するのは、原理に拘泥することが正義だという感覚だ。これが以上に厄介だ。おそらく活動を縮小することは可能でも撲滅することは不可能だろう。

今は熱心に先進国が支援して、一人でも多くの人間に教育をするべきなのだろう。優秀な人間が一人でも増え、人々に富が蓄積されれば、状況は変わってくると思われる。

 

 演説の原稿を読むと、ここ数年のパキスタンの困難な状況が偲ばれる。彼女が住んでいたスワートは有名な渓谷がある。渓谷を目当てに観光客が来ていたようだ。ところが2007年からTTP(パキスタンタリバン運動)がスワートを占領する。行政権を掌握すると恐怖政治を展開する。

 2009年にブログでこの惨状を世界中に発信していた。そのせいでタリバンのターゲットになってしまったのだ。

 

 

私の仲間である子どもたちに、世界中で立ち上がってほしい。

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん。「最後」になることを決めた最初の世代になりましょう。

 空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性。こうしたことは、私たちで最後にしよう。

 男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのは終りにしよう。

 少女が児童婚を強いられるのは終りにしよう。

 罪のない子どもたちが戦争で命を失うのは終りにしよう。

 教室が空っぽのままなんて終りにしよう。

 女の子が、「教育は罪で、権利ではない」なんて言われるのは終わりにしよう。

 

 

 これは原稿の最後の方の分だが、逆をいえば、このような状況のなかで彼女は暮らしていたのである。女子に対する扱いは違うかもしれないが、ほとんど日本の二次大戦中の光景である。

 マララさんが襲われたときには同級生と一緒であった。友人にも深いトラウマを残してしまったようだ。それでも闘おうという精神力はどこから来ているのか、それこそ教育の力なのかもしれないと思った。

 頭を撃たれたという体験を経て、何か突き抜けてしまったような印象だ。冒頭で置いた二つの噂を戻そう。演説の冒頭でマララさんはこのようなことを言う。

 

パシュトゥン人として、パキスタン人として、そして若者として、最初にこの賞をいただくことを誇りに思います。年下の弟といまだにけんかしているノーベル平和賞の受賞者も、私が初めてだと確信しています。世界中が平和になってほしいのですが、私と弟たちに平和が訪れるのはまだ先になりそうです。

 

 

 事前に考えてきた原稿なのだろうか。それはわからないが、適切な位置で適切なウィットを入れるというのは結構難しいというのは、結婚式のスピーチなどを考えれば分かるだろう。

このような精神力や知性を持った人間が将来のリーダーになっていくのだろう。困惑している人々もいずれ追随していくだろう。それに自分が政治的に利用されているということに対して自覚的であるような気がする。そんなことを気にもかけないような感じがする。そして逆に利用してやるという強さ、しなやかさを感じるのは私だけだろうか。

 

 

 

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女