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又吉直樹 「火花」読書感想文(文學界2月号)

雑記 デビュー作 読書

文學界 2015年 2月号 (文学界)

 

まさりんです。

 今回は今話題の又吉直樹氏の「火花」という作品の感想を書く。

 この作品のおかげで、文學界は異例の増刷だったそうだ。確かに、文學界を買おうと書店に行ったのだが、どこも売れ切れであった。一週間後だったか、やっと手に入れた。文芸誌コーナーに平積みになっていた。が、文學界が大々的にクローズアップされていたということはそんなに無かったように思う。なにせ、大型書店ではなく、普通の駅前の書店なのだから。

 

 又吉氏が文学好きだというのは何となく知っていた。何かの番組で、ウッチャンと一緒に神田の古書店に行って、稀覯本を見て回っていた様に思う。ただ、そのときはただの文学好きで、蒐集家なだけかと思っていた。その後(知らなかったのだが)文学評論の評判も上がっていたらしい。爆笑問題太田光のようなものだろうか。ある記事では、それこそ文芸の世界をしょって立つと書かれていた。

 その記事を読んだ感じでは、あまり目新しいタイプの物語ではないという感じだった。だから、読むのを少々ためらった。が、読んでみなければわからない。読んで後悔しているのかといえば、そうではない。容易に読みこなせますかといわれれば、それも違う。おすすめですか、といわれるとそれも迷ってしまう。不思議といえば不思議な小説だった。

 

 この小説を分類すれば、私小説に近いものだろう。「純文学」というくくりは嫌いなので、その言葉を外すとすれば、そう表現するよりない。自己のお笑い芸人の経験をもとに、書かれたものだからである。ただ、完全に自己かといわれれば、そうではないのだろう。

 

 芸人徳永は熱海の花火大会における営業で、芸人神谷と出会う。この神谷と徳永の関係の顛末が語られた小説だ。同時に、芸人一般における長年にわたる歳時記の様相も入っている。年齢が重なる故の宿命、売れる芸人と売れない芸人、家族をもつということ、様々な局面で迷いながら、芸人達は生きている。

 まず特筆すべきは、神谷という芸人の特質だろう。天才という言葉でも彼を言い表していない。天才という存在は有形の枠にある。この言葉で表現することも、神谷を型にはめてみるということになる。

 従来の天才という語句を使用する際に、以下の分類が考えられる。

 まずは神童だ。これは子どもなのに大人並みのことができてしまう子どものことを指す。大体、大人になると凡人になるらしい。おそらく、早熟だというだけで、それほどの能力があったわけではないのだろう。スポーツにおける子どもの天才はこの神童出あることが多い。

 子どもなのに大人よりすごい、という天才というのも存在する。芸術の世界では、そういう存在がまれに登場する。瞬時に頭に浮かんだのは、辻井伸行さんだ。少壮に入ったころに演奏しているのをテレビで見たが、「ピアノを弾くのが楽しいです」という演奏で、完全にピアノと一体になっている演奏だった。子どもとはいえないかもしれないが、きっと一〇代の頃よりそんな感じだったのだろう。

 と、youtubeで調べてみると、やはり天才的であった。いくつか挙げておく。

 


辻井伸行 ラ・カンパネラ - YouTube

 

 


" Miracle Pianist" Nobuyuki Tsujii - YouTube

 スポーツ界ではこういうことはなかなか起こらない。大人と子どもの体格の差は絶対的な壁を作り、大人と混じっても天才的な能力を発揮するということはまずないだろう。

 次に、年齢等にかかわらず、誰よりもすごいという天才もいる。あげればキリが無いから挙げない。イチロー、松井、枚挙に暇が無い。

 

 天才には様々な要件があるが、要件の一つに「わかりやすさ」というものがある。その道の通が見なければ、わからないという才能は、天才と認知されずに埋もれてしまうだろう。皆に理解されて初めて天才になる。

 

 この作品の神谷は周囲に理解されていない。

 とあるメディア向けの発表会に出場するというシーンがある。そこでは2本のネタをやらなければならない。神谷のコンビ「あほんだら」は、一本目をオーソドックスなネタ。二本目を同じネタをテープに録音したものを流し、当て振りをするという内容であった。審査員からは「一組、音響を使った漫才ではないコンビもいましたが」と酷評をされる。他の芸人からも「売れる気ないでしょ?」と言われる。ただの奇抜な芸人という位置づけなのだ。

 わかりやすいものを持たないという神谷は天才ではない。いや、「天才」という言葉にははまらない才能を持っているのだ。

 

 一方で理解されない才能が、その才能のすごさを世界に認知させる方法もないわけではない。要するにわかりやすさを手に入れれば良いのだ。

 本人が手に入れれば一番理想だ。いくらとがった才能でも、加齢と共に、大衆がわかりやすい位置まで降りてくる可能性がある。これが一番理想だろう。もちろん、本人が業を煮やさなければ。芸人で売れているというものはこの例だろう。

 翻訳者が現れる、というパターンもある。

 浄土真宗の開祖親鸞はまさに天才肌の人であった。しかもカリスマでもあった。だから、生きているときには、教団は人を増やす。しかし、その後分派したりして、勢力を落とす。その教義は大衆には少々難解だったのかもしれない。

 それを簡単にしたのが蓮如だったらしい。蓮如が登場した頃、つまり戦国初期に幅をきかせていたのは、踊り念仏で有名な時宗であった。室町末期あたりには、民衆の力が台頭してきた時期だ。その力を利用し、教団を再構築した。「講」という組織にした。もともと「講」とは「仏法を抗議する法会」のことを指したらしい。そして親鸞の教えを「御文(御文章)」を書いて分かりやすくした。やがて、すさまじい勢いをつけたこの宗派は「一向宗」とよばれるようになった。その後、各地の為政者とぶつかり、大名を苦しめたという話は置こう。

 蓮如は浄土真宗の中興の祖とされるが、何をしたのかと言えば、親鸞の教えを受け容れやすいように翻訳したのだ。そう考えると。

 この「火花」では神谷にその役割を授けた。徳永は神谷に自身の伝記を書けといわれる。作品の最後では、その伝記を書き続けているという会話が出てくる。これは曲解かもしれないが、「俺をわかりやすく書け」という命令だったのかもしれない、と考えた。そこまで考えるとこの小説の本質に自分は近づいた気がした。もちろん、私が書いたわけではないので、どこまで行っても、「解釈」には違いない。それに又吉氏は分かっていなくてそう書いていたということもある。それが小説のおもしろさだ。

 「あほんだら」の相方の大林にこう言われる。「神谷は徳永の前ではかっこつける」。

 それは「伝記をよく書かせるため」にそうしていたのかもしれない。通常、伝記は偉人の良い部分を集めたものだ(児童向けなら)。「実はこんな人」というのは、表の伝記が立派であるから成立する、「裏の伝記」である。徳永は良い部分も悪い部分も書いている。

 我々が読んでいるのは、伝記の上巻なのかもしれない。作中、徳永の生き方というか、お笑いに関する考え方を表した言葉が多く登場する。伝記ではなく、小説であれば、かっこいい言葉をインタビューのように書くのではなく、その言葉通りの場面を構築して神谷にそれをさせるであろう。しかし、本作品では語るのである。本当に語ったのであろう。小説として始め読んでいたので、この点は残念だと感じた。ただ話させるのではおもしろくないだろう、と。だが、伝記なら話は別だ。

 我々が読んでいるのは、「神谷に関する伝記」の上巻(予定では中巻まで書いた所で徳永は死ぬことになっている)を読んでいるのかもしれない。

 

 将来どのようになるのかわからない作家なので、読んでおいても損はないか。だが、又吉氏の作品にも「翻訳者」が必要なのかもしれない。

 

 

文學界 2015年 2月号 (文学界)

文學界 2015年 2月号 (文学界)