春で朦朧としているまさりんです。
「春」と「朦朧」って、なんだかきれいな組み合わせだ、ということに今気づいた。
最近もハードディスクの容量を増やすために、撮り溜めていた映画をせっせと見ている。「かぐや姫」も録っているのでさっさと見なければいけないのだが、何を見るかはその日の気分にもよるのだろう。どうも、ジブリ系は見たいと思わなくて、そのままほっといてある。
先日は、「どら平太」と「ハゲタカ」を見た。
「どら平太」は市川崑監督の作品である。市川崑はご存じと思うが、七〇年代に横溝正史の探偵小説を映画化した監督として有名である。それ以前には東京オリンピックの記録映画を撮ったり、テレビにも挑戦し、「木枯らし紋次郎」なども録ったらしい。Wikipediaなどによると、様々なことに挑戦する監督であったらしい。
さて、この「どら平太」は、市川崑・黒澤明・木下恵介・小林正樹の四人の共同制作で作ろうと脚本までは書いたらしいが、結局揉めて、作品にはならなかった。市川崑は二〇〇〇年、他の三人の死後に作品化した。
どら平太(役所広司)は、小藩の奉行に就任する。「どら」はどら息子の「どら」だと思えば良い。素行は普段から不良で、国許ではなく江戸でも放蕩の限りを尽くしている。奉行になったのは、藩主から「堀外(ほりそと)」と呼ばれる繁華街の整理を命ぜられたからだ。平太は堀外の実情を調査するために、江戸での行状と同様に放蕩を尽くし、金をばらまきまくる。その豪快な人柄に引かれ、多くのものが平太に情報を話すようになる。
堀外には、三人の親分がいる。なだはち・太十・さいべえがそれぞれの領分を分けて堀外を統治している。そして、城代家老にも金品の賄を行っている。影では禁制品の密輸なども行っている。その利益の一部を藩に収めている。
結局はずぶずぶの関係であるために、取り締まれないのであるが、平太の人間的な魅力で、この親分たちも籠絡していく。
最終的に奉行所に一度も出仕せずに、平太は事件を解決していく。
市川崑の映画の面白さは、画の面白さだ。挿入される、ちょっとした画がおもしろい。一見すると、いや本当に意味の無い画が入る。たとえば、微風に揺れる縄暖簾とか、剽げた顔をした人間などである。また親分たちの家に平太が押し込むのだが、そのふすま絵が凝っていてうつくしい。また、全体的に黒を基調としている場面で、親分の赤の着物が映えるようになっていたり。それらの画を見ているだけで刺激的で楽しい。
「ハゲタカ」は二〇〇九年の作品である。
鷲津(大森南朋)率いる「鷲津ファンド」と、劉一華(玉山鉄二)率いる「ブルー・ウォールズ・パートナーズ」による、アカマ自動車買収を巡る攻防を描いている。
ブルー・ウォールズ・パートナーズは敵対的買収を仕掛ける。その裏には中国の巨大資本がある。アカマ自動車から依頼され、ホワイトナイトとして鷲津は参戦する。アカマ自動車にはかつて鷲津と関係のあった、芝野(柴田恭兵)がいる。この時点で、どちらが勝つのかが分かってしまうところが、これら経済小説の面白くないところである。
ただ、この劉一華という人物、結局実態のない人物であるということが分かってしまう。同一人物が中国にいて、ごく平凡に暮らしていた。では劉一華とは誰なのか、ということは分からずじまいになる。そして最後、行きずりの強盗に刺されて、散らばった万札をかき集めながら、泥にまみれて死ぬ。
劉一華は、自分の不幸な境遇から抜け出すため、あらゆる手を使って這い上がろうとした人物である。ところがこの結末。一応、「アカマ自動車」に個人的な思い入れがあり、ただ買収して高く売り抜こうとしたのではなく、本当に建て直そうとした節がある。通常、この手の設定なら、劉一華の人物像がどれだけ魅力的に書けるかにかかっている。だが、あまりにもみじめたらしく死ぬのである。彼が在日三世と偽っていた中国系だからだろうか。
どら平太は実はものすごい家臣の息子であるという設定だ。つまり、血筋が悪くはない。外からやってきて、組織の外からやってきて改革するという設定は日本の組織改革の定番である。だが、上流階級に近いところからこういう人間が出てくるという意味では、現実味は薄い。本当に外部からやってくるようでなければ、日本の組織改革はままならない。だからこそ、見ていて痛快なのであるが。
それにしてもいつのまにか、劉一華のような腕一本でのし上がってくる人間が嫌われるようになったのだろうか。あしたのジョーや巨人の星、金環食の石原のように、貧困の混沌から抜け出るべく奮闘する、少々灰汁の強い連中だ。こういう人間たちが外部、または下位層からやってきて、社会をかき回すことも改革に繋がる。同じような状況にある人間には目標になるからだ。どら平太とは違う改革だ。
やはりホリエモンからだろうか。バイタリティの強い人間のイメージが悪くなったのは。そしてそれを決定的にしたのは、亀田兄弟からだろう。このような人間たちの物語はそれなりに意味があった。だが、いつのまにかこのような人間は、嫉視されるようになったのかもしれない。今では、成功の物語、文脈というものが消失してしまった。スポーツにだけは残っているが、そこにはあまり嫉視がない。身体的な強健さは人間は素直に羨望できるのであるが、知的な剛健さは受け容れたくない気がしてしまう。おそらく、それも肉体の強健さと同一なのであるが、「自分が頭を使っていないのではないか」という焦燥につながるからかもしれない。
よく「結果の平等」と「機会の平等」の議論が起こる。その「機会の平等」を掴むべく、彼らは奮起している。そうすることによって、階層が固定せず、金だけでなく能力も移動するのである。それはとてもいいことだと、個人的に思っている。まあ、そんな連中と友達になりたいかと言われれば考えてしまうが、適度な距離を保ちつつ付き合う分には楽しいのではないだろうか。