今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

「stand by me」はコミュニケーションの教科書なのかもね。

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 はてなブックマーク論争が盛んですが、よく内容が理解できないまさりんです。面白いと思う記事をブックマークしてもいいんですよね。

 

 今日は朝から、「stand by me」を見てしまった。一時間半で見られる映画なので、それほど他の作業に影響が出ず、そのうえさわやかな気分になれた。だからレビューを書こうと思ったのだが。

 

 

zeromoon0.hatenablog.jp

 

 はてな文芸部長の区分けによると今回のレビューは、どちらに当てはまるか分からない。いまさら「stand by me」をすすめたところで、新規に見る人もそれほどいないだろうし、ファンと交友を深めるといっても、それほどのファンでもない。だが、強引に区分けすれば、「ファンと交友を深める」のが今回の記事の内容だろう。

 この作品は、スティーブン・キングの「the body(bodyは死体の意味)」だ。主演は誰とするか難しい。例の四人組とした方が良いだろう。ゴーディ(語り手)・クリス・テディ・バーンの四人だ。クリス役のリバー・フェニックスを筆頭に、ゴーディ役のウィル・ウィトン、テディ役のコリー・フェルドマン、バーン役のジェリーオコネルと、まあまあ大成している役者が主演を勤めている。語り手であるゴーディの大人役はリチャード・ドレイファス、敵役の不良グループのボスであるエース役のキーファー・サザーランドなど、子役も含めて結構な名優が揃っているのもこの映画の良さに繋がっているのだろう。

 とはいうものの、土曜洋画劇場(だっけ? フジテレビのヤツ)で十代の頃死ぬほどやっていた本作品であるが、九〇分と短いにもかかわらず、最後まで見切ったことがなかった。

 さて、本作品であるが、アメリカのキャッスルロックという田舎町で育った四人。ある日、バーンが兄たち不良グループの話を盗み聞きしてしまう。それは森の奥、三〇キロほど離れた所に、列車に轢かれた子どもの死体があるというのだ。町中が行方不明になった子どもを探しているのに、発見されず子どもは死んでいた。

 その話を聞き、四人でその死体を見に行こうという計画をする。四人は一二歳であるが、一二歳にしては大きな冒険だろう。家族にはみなでキャンプをすると嘘をついて、四人は出発する。

 四人はそれぞれ家族にコンプレックスを抱いている。ゴーディは両親の自慢だった兄が死んでしまい、その際に父親に「お前が死ねば良かったのに」といわれ、ひどく傷ついている。テディは父親がノルマンディ第二次世界大戦)の英雄であったが、精神を病んでいて、入院している。テディの耳をストーブで焼こうとした。虐待の反面、テディは父を尊敬している。クリスは、アル中の父と不良の兄を抱え、自分の未来に明るい道はないと思っている。ある日、クラスの牛乳代を盗んだ科で停学を食った。実は、牛乳代は返却したのだが、担任の教師のスカート代になった。「自分が丘の上の金持ちの子どもだったら、こんなことはしなかっただろう」と思っている。彼の境遇を象徴している。実はとても賢い。バーンは特にないか。そんな四人の境遇が、森の深くに行くうちに明かされていく。

 そんな四人であるが、コミュニケーションの原型になるようなやりとりを作中で何度もしている。一つは「規範を知る」。これはルールもそうだが、もっと深い、「何を恥だと思うか」、「何を名誉と思うか」という価値判断基準もグループのなかで形成している。

 例えば、こんなやりとりがある。食料を調達しようと雑貨屋に誰が行くかをコイントスで決める。ゴーディ一人がその役になってしまう。

 

 テディ:「ゴーディ、食料調達してこい玉なし」

 ゴーディ:「お前のかあちゃんと一緒にするな」

 テディ:「ずいぶんしまりが悪いのね」

 ゴーディ:「黙ってろ」

 三人 :「黙ってられるか、お前の顔見たら吐くぜ、おえ~」(三人とも指を口に突っ込む)

 ゴーディ:「そのゲロ、お前のかあちゃん、すすってなめた」

 以下に小気味良いとんちの効いた言葉でともだちの母親をけなすかで当時は一目置かれた。

 

 

 このやりとりでは、何が面白くて、何が恥で、その言葉を浴びせられたとき、どのように切り返すかという基準がある。ここで、「かあちゃんを馬鹿にするな」とかいってキレたら負けだ。もちろん、これはうちうちのやり方であって、初対面でこれをやってはまずい。コミュニケーションの作法というのはこのように教わっていくものである。

 

 森を旅するうちに、四人は(本当はバーン以外)は自分の悩みを親友に話していく。そのときもみな引かずに、懸命に聞く。それも作法だ。それをあとになって「下らない」とブログにアップなどしないだろう。

 くず鉄置き場の主人にテディが馬鹿にされたときもそうだ。父親がクズだと、一二歳の子どもを馬鹿にする、おそらく四十過ぎのオヤジ。そんなときも、他の三人も妙に慰めたりしない。それはそれでどうしようもないことなのだ。お互い何も言わずに支え合うだけだ。

 

 四人とエースたち不良グループの関係の対比もそうだ。おそらくエースたちは二〇歳近い設定だとおもうのだが、完全にエースを頂点としたヒエラルキーが存在し、無条件にそれに従っている。おなじどうしようもないグループだが、四人にそのような上下関係はない。

 

 男の子の場合、そのような濃密な時間が必要なようだ。自身にも覚えがある。とはいうものの、それは一二歳の頃ではなく、二〇歳前後の話だ。ただ、その友人と出会ったのは、一〇代の始め、そうこの四人とそれほど変わらない時代である。たぶん、どちらが上とか考えなくていい友人は確かに小学校時代の友人なのだと思う。なんでも忌憚なく話した。もちろん、女性差別をしたいのではなく、女性のことは私にはよく分からないという意味で、男性に限定した。

 ここでゆっこさんのブログのリンクを貼る。

 

 

michikusadiary.hateblo.jp

 

 

michikusadiary.hateblo.jp

 

 私がコミュニケーションの可能性を言及したのは、このような関係のコミュニケーションを信じているのかもしれないと思ったからだ。もしかすると、大学の友人の間だけとか、グループを限定する話なのかもしれないが。

 「stand by me」の四人もそうだ。彼らは森を進むうちに自分の考えを相手に話す。友人はそれを受け止める。だが、話している本人にとっても、自分の考えが妥当であるか、相手の反応で見ているという側面があるのだと思う。

 ゴーディは進学コースに進み、他の三人は職業訓練コースに進む、とクリスは話す。自分が中学の進学コースに行っても意味がない、と考えているクリスに、ゴーディは「君は賢いから進学コースへすすめ」とすすめる。その言葉が響いたのか、クリスは進学コースへ進み、やがて弁護士になる。(その後は見てのお楽しみ)自分の悲観的な考えを相手に話すことで反応を見て、妥当か見る。その前に、クリスはそんなこと、はっきりとは口に出していないかもしれない。それが形としてまとまったのも友人に話したからだろう。

 

 もちろん、小学生には小学生の、中学生には中学生の、大学には大学の、社会人には社会人の、距離の取り方や作法がある。これらは集団のなかでしか学べず、しかも有益に使えば、自分よりも高い知識の人間から有益な情報を引き出せるのもコミュニケーションなのである。これこそがコミュニケーションの第一の有益性だろう。

 ちなみに、この四人、中学進学後はバラバラになる。その切なさもリアリティがあるのだ。これだけ濃密な関係だとはいえ、時が流れ、集団が変われば、他人のようになってしまう者である。

 

 まずい。最近、他の方のブログ記事に絡ませて書くことが多いのであるが、三千字にもなってしまった。小説を早く。小説を早く。

 

 

 

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