池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

今の心境にあわせてブログ名を変更しました。どうぞよろしく。肩の力をさらに抜いてやります。

暑い日が続きます。これからはホラーの需要も増えますよね。米澤穂信「儚い羊たちの祝宴」

雑記 読書

 連日暑い日が続いていますが、紫外線対策してますか。日焼け止めが苦手なまさりんです。日盛りのなか行動しなければならない日がたまにありまして。そんなときは日焼け止めを塗りなさいなんて言いますなあ。塗らないと日光アレルギーが出たりすることがあるくらい、皮膚が弱いんです。

ところが、あのクリームが毛穴に詰まる感じがどうも苦手でして。ついでに汗っかきでもあるのですが、なかなか汗が毛穴から出ていけないような感覚がいやなんです。だから、紫外線対策などなにもしていません。男だからって、これは今やだめなんでしょ?

 

 

 今日は、「儚い羊たちの祝宴」という小説を紹介しよう。作者は米澤穂信(よねざわほのぶ)だ。

 

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 

 文庫版で読んだのだが、文庫には解説というものがある。若い頃はこの解説がどうにも苦手で、本文を読んだ後、解説は一切読まないなんてこともあった。解説は一般的に作者の経歴を紹介したり、本文をもう一度なぞって要点を述べたり、解釈を述べたり、といったものである。経歴は知りたければ知れば良いが、大抵カバーに概略が載っている。それで十分だ。要点は「お前にいわれたかないよ」という気分になる。解釈は大抵、その時代のカテゴリーのどこに属するという類いのことを書いているだけで、本を読むのに知らなければならないことではなかったりする。文学の評論家にでもなろうというのであれば読んでおけば良いが、一般読者にとっては雑音でしかない。

 ちなみに、この米沢氏の作品は解説によれば、「ポスト・セカイ系」なのだそうだ。加えて、ミステリーマニアで、オマージュがそこここにあるらしい。両者ともどうでもいいといえば、どうでもいい。オマージュは解説が書いてしまうと、それを発見した喜びが消滅してしまう。世の中には解説から本を読み、面白いか判断するという人もいるらしい。ポスト・セカイ系をあえて訳すと“セカイ系以降”ということになる。ポストモダン(近代以降)もそうだが、これはなにも言い表していない気もする。

 

 この作品の特徴は、ホラーとミステリーのミックスになっているように思う。もっとかみ砕いてしまえば、ミステリーなどに主眼が置かれれば、「誰が犯人か」というのが中心に書かれるのであるが、この作品はそれだけではない。この作品は「殺し方」を中心に描いている。これから起こる、またはこれまでに起こった殺人の犯人は、たいていすぐに見当がつく。だから、「だれが殺したのか」は問題になっていない。その代わり。「いつ殺したのか」、「どのように殺したのか」がクローズアップされる。読みながら、そのタイミングを待っているのが、非常に恐い。

 さすがに、ストーリーを話してしまうと面白くないので、匂わす程度にしよう。殺人が連鎖したり、殺されたと思っていたら、まだ死んでいなかったり。殺した人間の凶器というより、ちょっと世間からずれた感覚というのか。それがまた恐い。そこまで自分の職務に忠実じゃなくてもね。

 でも、もしかすると日本人って、外国の人から見ると、こういう風に猟奇的な感じがしてしまうのかも。

 

 

 

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 

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