池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

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宮城谷昌光「三国志」読了。常識人の書いた三国志。

雑記 読書

 こんにちはまさりんです。みどりの小野さんはありませんが、営業のすすめで、インターネット回線を別会社に変える作業中です。「ええ、もうお客様はなにもしなくて、五分くらいでぱっぱと終わりますから」と言われました。もちろん、半信半疑ですけどね。だって、こちとらADSLやらに変更したことがあるんです。そんなに簡単にいかないというのは知っていました。解約作業はこちらでやる(そういう作業の説明はない)、電話はなりまくり。まあ、いいですけど。新しい何かをするには、それだけ大変なものです。

 

 

 宮城谷昌光「三国志 第十二巻」読了! これだけ濃密な三国志は読んだことがない。知らない人は驚くかな。実は司馬遼太郎は三国志を書いていない。「項羽と劉邦」は書いている。実はこれがベストセラーらしい。もっとも、司馬遼太郎は日本史をたくさん書いているイメージなのだろうか。私は司馬遼太郎が三国志を書いていないと知って驚いた。

それにくらべて宮城谷昌光は中国史のイメージを皆さんお持ちだろう。すごいです。一応漢文は外国語なのである。そこから、まるでその場を見ているように場面を立ち上げる文章力は驚嘆する。ため息が出るのである。

 本書あとがきによると、三国志を初めて意識したのは、神田の古本屋らしい。小説家志望だった宮城谷氏は学生時代、古本屋に友人と訪れ、陳寿の三国志(原文)を友人に手渡された。それをペラペラめくりながら、いずれ三国志の世界を描く予感を抱いた。

 そして三十数年後、三国志を描くことになった。三年もの月日をかけて、まずは年表を作成した。「長い連載のまえには、小説用の年表を作るのが、つねである。事件の取捨選択をおこない、小説に欠かすことのできない人物の履歴をあてはめて、記入する作業である。これをおこなうと、冷ややかにみえる歴史的事実も温かさをよみがえらせ、それらに関わった人々が生活に連動するようになる。つまり、読むことは、書くことにおよばない。資料を百回読んでもわからなかったことが、書き写せば、一回でわかる、という経験をもっているので、自分なりの年表を作るのである」

 自分で書いていて、「つまらねえな」と思ってしまう私のような雑文書きでも、この「書き写せば、一回でわかる」という感覚はよく分かる。それにしても、三年もこのような作業をさせてくれるというのは、まんざら日本も貧乏ではないじゃないか、と思ってしまう。

 

 小説はその人となりが現われる。宮城谷氏に現われる人となりは「常識人」だということだ。野心家でもなく、自己顕示欲が異常に強い人物でもなく、ニヒリストでもなく、ネガティブでもなく、異様にポジティブでもない。失敗した人物でも、上段から見下げるのではなく、どことなく同情しているようにも感じる。

 

 この十二巻でも様々な敗者が生まれる。当然だ。三国時代の終焉を描いているのだから。勝者は三国のうちの一つ。敗者はその他二つだ。書いていてバカみたいだと思った。しかし、三国志を知らない人にはこれくらい書いても良いのだろう。勝ったのは曹操を祖とする魏の国だ(正確には祖は息子の曹丕)。敗者は劉備を祖とする蜀、孫権を祖とする呉である。国の数だけ大量の敗者を生む。それだけではない。魏の国から蜀を攻めた鍾会や鄧艾(ガイの字が違っているかもしれないが、以下これでいく)は勝ったのにもかかわらず、失脚する。二人とも自己の性格が敗因だ。鍾会は驕り。自分は劉備程度にならなれる、と反乱を起こそうとして失敗する。兄や家族にもその驕慢は読まれていた。それくらいわかりやすく、討伐群を率いさせるときに、大将である司馬昭のもとには諫めるものがいたくらいだ。

 鄧艾の敗因はなんだかよくわからない。ただ、元々拙速な性格なのだろう。実質蜀を落とした将軍であるのだが、そのままの余勢をかって、呉まで落とそうとする。蜀から呉は、長江の流れを使うと、一気に責められるのは確かだ。しかし、蜀だけでなく呉を落とすということは、下手をすれば将軍である司馬昭を越える功を立ててしまうことになる。それに気付かなかった。確か閑職にあったところを、司馬昭の父親である、司馬懿に見出された人物だ。あまり、上司と部下のような人間関係の機微に疎かったのかもしれない。そういうところに気を配れるかどうかも性格だろう。また、蜀入りしたときにも、討伐軍を仕切っていた鍾会を差し置いて人事を決定したりする。そういう機微に疎かったのと同時に、これまた驕った性格だったのかもしれない。(人物名を出すのが大変なので、これ以上例を出さない)

 英雄視される姜維や諸葛亮もきちんと人物的な負の部分が書かれている。公平なのだ。先日も書いたが、どの場面もウェイトに差がない。もしかすると、歴史の教科書以上に細かく、歴史の教科書以上に成功者にウェイトがかかっていないかもしれない。出来事を忠実に描くため、敗者についてもきちんと描く。そこが公平な感じがするのかもしれない。

 司馬遼太郎が同じく三国志を書けば、みなが野心家であったり、情けない人物に関しては、「情けない」と吐き捨てる容赦無さがあったりする。北方謙三なら、みんな男前になってしまう。

 一二巻という巻数を見て、「うげえ、無理」と思うかもしれないが、この灰汁のない文章なら、きちんと読み通せる。とくに吉川英治(横山光輝でもよし)を読んだことがあるという人は是非読んでみてほしい。

 

 

 

三国志〈第1巻〉 (文春文庫)

三国志〈第1巻〉 (文春文庫)

 

 

 

 

三国志 第十二巻 (文春文庫)

三国志 第十二巻 (文春文庫)

 

 ※一巻と最終巻だけを挙げておきました。

 

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