池波正太郎をめざして

明日は明日の風が吹く

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第九回 短編小説の集い 出品します。「会社をやめた日のこと」

 まさりんです。

novelcluster.hatenablog.jp

 今回も「第九回短篇小説の集い」に出品します。ゼロ助さんお願いします。

 

 

 「会社をやめた日のこと」

 その日ケンジは退職届を叩きつけた、となればカッコイイのだが実際は違った。一番採光の良い、窓を背に鎮座する課長席の前で、恭しく両手で退職届を差し上げた。まるで卒業証書を押し頂くように。書類を書いていたオールバックの頭が上がり、角のない弁当箱のように四角い顔と黄色い四角い縁の眼鏡が見えた。

 「良いんだな。お前の十数年がムダになるぞ」と最後になる慰留があった。眼鏡のフレームの中央を、人差し指の横で押し上げた。脂性のためかずり落ちた眼鏡を頻繁に押し上げる癖がある。ケンジが慰留に反応する暇もなく、手書きで『退職届』と書かれた封書を、課長は事務机の一番上の引き出しに収めた。その字になにか反応するかと思いきや、なにも触れないことに面食らった。部下の統率力を買われ出世したはずの課長は些細なところによく気がつき、間髪入れず大げさに褒め称えるのが常であった。もちろん、平生より子どもだましで、小手先の技だとは分かっていた。そんな媚び諂いで出世したのだろう、とケンジたちは陰で苦笑し合っていた。そんな子どもだましさえない今は、数枚の紙ペラを差し出しただけで人間関係の鎖がふつりと断ち切られるのを感じた。苦難を乗り越えてきた同志だとケンジは思っていたのだが、所詮は「金儲け」という共通の目的だけのつながりだったのだ。

 窓を見るといつの間にか雨が降り始めていた。梅雨のぬか雨は微風に揺らされて、暖簾のようにたなびいていた。ケンジは綺麗だと思った。雨に様々な表情があることに久しぶりに気づいた。雨に見とれていると、目の前のオールバックが再び上がった。その目は、「いつまでいるのだ」という責めるものだった。一礼をしてふり返った。暗黙の内に、社員の机は課長の覚えめでたい順に課長席に近い。この社の風習だ。ケンジの席は中央あたりだが、その後ろには新人と派遣しかいなかった。

 自席で黒い肩掛けのバッグを持ち、出入り口に向かった。誰もがケンジを元々存在しないように扱った。そのくせ、重く巨大な針のような圧迫を全身に感じた。私物は整理済み、引き継ぎも終わっていた。退職の準備は万端だったのに、なぜか後ろめたさを感じた。学校を辞めてしまう劣等生のような気分だった。昔、私立中学から自分たちの公立中学に落ちてきた男がいた。いつも言い訳をしていた。そして照れるような、自らを冷笑するような笑顔をした。そんな卑屈な顔をしているんじゃないか、と表情を引き締めた。色々な同僚たちの「逃げるのか」という声なき言葉が聞こえた。その圧力は頭痛へと変じた。首の後ろに血が溜まって太くむくんでいるのが分かった。自律神経が失調しているのだろう。逃げるように足早に立ち去った。

 駅へと向かう大通りを歩いていた。皇居へと続くその通りは、緩慢な坂道になっていた。駅に向かっては下り坂だった。片側三車線の通りは右へと緩く曲がっていた。歩いていると、ゆっくりと谷底へと歩いて行く気分になった。ことに今のケンジにはグニャグニャと左右に曲がっているように映っていた。目が回っているのだ。

 自分がまっすぐに歩けない気がして、わざと側溝のふたの上を歩いた。側溝の幅で歩こうと思っても、意思に反して左右にフラフラとしてしまって、思いのままに歩けなかった。こんな状態で自転車にでも突っ込まれたらたまらないと思うのだが、身体が思う通りにならない。枯れ葉のように地の底にゆっくりと舞い落ちる気分だった。頭痛はいつの間にか抜け、変わりに頭に鉛の塊を入れたようだった。頭の揺れが大きくなり、つんのめるように車道に向かって倒れそうになった。「駐車禁止」の標識の白い柱をなんとか掴んで、倒れることも車道に飛び出すこともなくすんだ。ただ、そこに老人の運転する自転車が突っ込んできてすんでのところで止まった。驚きすぎたのか老人は何も声をあげなかった。ケンジは左手でポールを掴み中腰のまま、「すいません」と老人に、聞こえたのかはななだ怪しい声で謝り軽く頭を下げた。老人は舌打ちを残して自転車をこぎ出した。ケンジはよろめいたとき傘を投げ出したらしかった。見回すと少し離れた歩道に逆さまに落ちていた。しばらく標識の根本にしゃがんでいた。ぬか雨は容赦なくケンジの身に吹きつけられた。前髪からは滴がしたたった。

 ひとりごちる。「そりゃわかっていたさ。あんな扱いを受けるくらい」。

 だが、考えるのと実際は違った。質感が違った。独特な重さや痛みがあった。

 ケンジの働く運送会社は、仕事が非常にハードだ。新人は数年おきに入社するが、次に新人が入るころにはほとんどが退社した。ケンジたちにはそう見えたが、上長は計画もなく、足りないから補充したのだろう。上の考えていることはケンジたちにはわからない。

 同僚が辞めるとき、ケンジたちは彼らを「裏切り者」として扱った。これが生き残った忠誠心の高い社員の結束を固めた。要するに離脱しにくくなったのだ。業務は悲惨だった。顧客の都合に合わせ、始発に出勤をすることもままあった。帰宅は夜一〇時前になることはほぼない。時間の管理は本人次第という建前で、すべて課長が管理した。残業はなぜかあまりしていないことになっていた。課長にとってその方がさらに上に覚えがめでたくなる。

 ある日、事業所移転の際、四人で運んでいた金属製のラックを足の上に落とすという事故が発生した。いちいち陳列し直すのは面倒なのだろう。ラックの中の書類はそのままにして運んでいた。重さは百キロ以上、いやもっと、か。彼の足は・・・・・・。事故にあった人間は四〇代で前の会社でリストラにあった非正規雇用の男だった。再就職までのつなぎでこの仕事をしていた。非常に温和そうな男であった。

 「やっちまったな」、同僚がケンジの肩に手を置いて囁いた。「これから大変だ」。

 「どうしてだよ、労災おりるだろう」同僚は鼻で笑った。「事故が発生したのを認めるのか。誰がミスを引き受ける。責任者はあの課長だぜ。アイツがそんなことすると思うかい」ケンジは返す言葉がなかった。「たぶん幾らか課長が金を渡してうやむやだろうな」

 「違法だぜ」、ケンジは空しい反論をした。「事故が起きればな。適正な処理をする必要があるかどうかは、事故自体がなければ関係のない話だ」。全身が粟立った。

 「オレたちも同じ目に遭うのかな」

 「それはない。今、そういうのウルサイから。正社員はね・・・・・・」

 と、さも自分は蚊帳の外だという反応をした。

 目の前で荷物を運び終わった派手な塗装のトラックの荷台に怪我した男を運び入れようとしていた。救急車は使わないのだろう。同僚は「手慣れたもんだ。例の――病院に運ぶよ」。その病院は色々と都合の良い病院らしい。同僚は顧客の方に向かった。男を運ぶのはバイトの古株の大学生たちだった。少なくとも彼らはこれまでこのような経験があるのだろう。

 ケンジは空しくなった。顧客に説明する同僚は非常ににこやかだった。彼は課長のおぼえがいい。いったい何のために働いているのだろう。自分の労働が誰かのためになっているのだろうか。この十数年で、会社の業績が拡大したか。自分に誇れるだけの何か、技術でも経験でもいい、何かが身についたか。もうこんな生活はよそう。ケンジが決意したとき、手の甲に冷たいものが降ってきた。冬の雨だった。

 頭のふらつきがようやく止まった。ひっくり返った傘を拾って駅に向かった。全身濡れそぼって寒かった。確実に風邪をひく、と感じたケンジは駅前ロータリーにある、ユニクロでシャツ・ジーンズ・パーカーとタオルを買った。濡れそぼるケンジを心配した店員が試着室を使うか、とすすめてくれた。先ほどまでの「裏切り者」扱いの重圧に苦しんでいたからだろう。哀れみをかけられた感じがしていたたまれなくなり、逃げるように店を出た。

 ロータリーには巨大な歩道橋がかかり、苦もなくあらゆる方向へ移動できた。幾多の人々がすれ違って行った。平日の昼間でサラリーマン、OLが多かったが、同時になぜかカップルが多かった。予報が外れて、突如雨が降ったからか、傘を持っていない人もいて、咲きかけのあじさいのようだった。近くの大型のスーパーに入った。重い足を引きずるように歩いた。やたら就活生が多くいた。エスカレーターに乗ると、前の女子大生は黒字のリクルートスーツなのに、トパーズのような黄色のパンプスを履いていた。そしてトイレ脇の椅子で平気でパンを食べる女子大生がいた。他にも多くの人がいたのだが、重い頭にはそれ以外は入ってこなかった。

 着替えをすませトイレから出ると、すぐそばから私鉄の改札につながっていた。とにかくこの地から逃れるために、自動改札に向かった。改札機にICカードでタッチするすんでに、アナウンスに気づいた。

 「――ただいま、・・・・・・線は人身事故のため、運転を見合わせて・・・・・・」

 改札奥にある電光掲示板を見ると、事故の旨が書かれていた。改札からおばあさんが二人歩いてきた。「いやね。大学生かもしれないって。リクルートスーツ? 着てたんだって。なにもこんなコトしなくたって」と話していた。

 「そうしたくなるくらい辛いんだよ、バカヤロウ」ケンジは独りごちた。

 私鉄を諦め、山手線に乗り込む。たまたま席が空き、そこに尻を滑り込ますと、途端に落ちた。目が覚めるとちょうど御徒町を出るところだった。寝たおかげで心身の不調は少し回復した。無性に広い場所を歩きたくなって、上野駅で降りた。公園口から右に曲がり、ガードレールに沿って歩いた。右手の遙か向こう、鉄道科で有名な岩倉高校が見える。正面のスカイツリーを眺めながら、トボトボ歩く。身体に力が入らないが、ケンジには導かれるように歩いた。抗う余力がなかった。左手にある朱色のロケットランチャを虚ろに見ながら、左に曲がった。そのまま進めば、近代博物館に続くはずだ。広い歩道にはブルーシートのテントが点々と貼られている。三つ目のテントの脇に座るホームレスがケンジを手招いていた。男は髪も髭も伸びっぱなしでもはや年齢不詳だ。さして歩いてないのに疲労困憊のケンジは、『座る』魅力に抗しきれなかった。男の横にドスンと崩れ落ちるように腰を落とした。男は「おおう」と驚いて、身を捩った。

 ケンジは座った途端にすさまじい臭いに鼻をやられた。

 「どうしたね」男はニコニコして聞いた。ケンジは今日の顛末を話した。男は「そうか、そうか」とケンジのまとまらない話を聞いた。やがて、「要領を得ない話だが、なんとなく分かった。要は混乱しているわけだな。子どもがたまになるだろ。いたずらが大きくなっちゃって収拾つかなくなって泣いちゃう子ども。あれだろ」と話し、ケンジを見た。ケンジは小首を傾げた。

 「ちがうか。変な彷徨いかただったからな、それで声をかけた。そうだいいものをやろう」、男は傍らのバッグを漁りだした。気づけばしつこく残っていた雨も上がり、藍鼠色の曇り空は夜の手前の濃い紺色になっていた。男が取り出したのは猫であった。ケンジは猫を飼ったことはなく詳しくないが、その猫は生後ひと月くらいだろうと推測した。両の手で子猫を預かった。「みー、みー」としきりに泣いては、黒目がちの濡れた瞳で何かを訴えるようだった。男は湿気モクに火を点けた。視線は正面の巨大なクジラのレプリカにある。クジラは海に飛び込む様だった。

 「何処かを探しているというふうに見えてな。けど人間、行くべき場所も行ける場所も限られてるもんだよ。ましてや、そんな場所、あの世にもない。今自分のいる場所で踏ん張るしかない。これも違うか」

 横目でケンジを見る。ケンジはニコと笑った。

「この子を育てなさいよ。やるべきことがあれば、おのずとそこが居場所になる。その会社には居場所がない気がしたんだろ」

心を鷲掴みにされ、痛みで涙が出た。左手で子猫、右手で涙を拭った。猫は指を優しくなめた。「頑張りなさいよ」と、ケンジの肩を強く叩いた。その勢いで立ち上がった。一礼して立ち去った。元の道を戻る途中、男の正体を知らないことに気づいた。

 ふり返ると、道を渡った男は、寛永寺太子堂へ入っていくのが見えた。(四九九七文字)

 <Wordで編集、文字数カウンタで集計>

 

 

※追伸:今回は「文字数カウンタ」に合わせて文字数を調整しました。それにしても、これとWordの文字数と、差が出るのはどうしてなんでしょう。Wordで改行を訂正して、文字数を再度文字数カウンタで計ると、逆に文字数が増えたりして。不思議な体験でした。まあ、「文字数カウンタ」に合わせます。

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