今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

夏目漱石三部作「三四郎」感想。時間がかかった割にはたいした文章にならんかった。

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 風邪が抜けないまさりんです。

 体質的に一番効果があるのは、市販薬ではパブロンなんですが、効果の代償で便秘になるんですよね。その前から便秘だったので、パブロンを避けて他の風邪薬を飲みました。これが効かなくて、徐々に体調が悪くなっていきました。喉と鼻の奥が腫れて、痰やらの汚物の量が増える増える。

  仕方がないので、昨日の夜と今日の昼はパブロンを投入しました。今はものすごく楽です。もしかすると、今日は外が暑すぎて、エアコンが効かないせいもあるかもしれません。内のエアコンは古すぎて、半端に効かないんですよね。極端に暑くなるか、寒くなるか。もうこの季節は地獄です。便秘になるのも懸念しています。

 さて、本題へ。

 

 

 「第十回 短編小説の集い」のテーマが発表されました。テーマは「旅」です。締め切りは三十一日から八月一日に変わる、午前十二時です。

 これに本格的に取りかかる前に、長い間の懸念を晴らしておきましょう。それは、夏目漱石の三部作、「三四郎」「それから」「門」の感想を書くことです。

 さすがに漱石となると、眉間とこめかみ、それと肩に無用な力が入ってきます。なんだかものすごいものを書かなければならない気がしてしまうのです。「江藤淳とか小森陽一くらい読んどこうかしらん」とか力みかえってしまうのです。私は別にプロの文学研究者じゃないし、プロの書評家でもない。力む必要はないのです。もっとも、本気でやらないとこういうのは楽しくないけどね。だから、間違えとかを恐れずに書いてしまおうと思っています。

 今回は三部作のうち、「三四郎」について書いてみようと思います。

 「三四郎」は一九〇八年の九月~一二月まで、朝日新聞紙上に連載された作品です。一九〇五年に日露戦争が終戦して、それから三年後です。確か「成金」という言葉が流行りはじめたころだと思います。西洋諸国に比べ、工業化が遅れていた日本は、日清・日露の両戦争を通じ、急速に発展しました。

 「三四郎」の冒頭のシーンは、そんな時代を反映したものです。日本には外国人にとっては富士山くらいしか見るべきモノがないという謎の男が登場します。

 

 「お互いは憐れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるからごらんなさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

 「亡びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気の裡に生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとくにやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでも落ちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男がこう言った。

 「熊本より東京は広い。東京よりは日本は広い。日本より・・・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の家を見ると耳を傾けている。

 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」

 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に馬下を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に秘境で会ったと悟った。(「三四郎」夏目漱石 旺文社文庫

 

 

 有名なシーンですね。この謎の男、このお話のキーパーソンである広田先生です。

 このような出だしから始まる「三四郎」です。漱石のタイトルの付け方というのは特徴があります。それは漱石しかやらない独特な方法というより、「ストレートにつける」ということです。「吾輩は猫である」とくれば、「主人公の猫を描いた物語」であり、「坊ちゃん」なら「坊ちゃんのお話」なのです。「三四郎」も「主人公の三四郎を描いた物語」だと考えて良いです。

 ただ、このお話、これといった展開のないお話です。例えば殺人事件が発生して、それを解決していく過程で、登場人物の謎が解決されたり、といったものではなく、物語が世界というか、うねりのようなものが存在しません。強いて言えば田舎者の三四郎が美禰子に翻弄されて振られる、というものですが、これが中心のお話ではないのです。

 「三四郎」は三部作の世界である東京の日常を紹介するものです。この東京にいる人間がどう分類されるのか、広田先生の言葉を借りましょう。

 

 「おっかさんの言うことはなるべく聞いてあげるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、することなすこと一として人を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんなひと本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、ぜんぜん自己本位を思想行為の上に輸入すると、こんどは我意識が非常に発展しすぎてしまった。むかしの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――、君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」

(中略)

「昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日ではめいめい同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪いことでもなんでもない。臭いもののふたを取れば肥桶で、みごとな形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れきっている。形式だけみごとだってめんどうなばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同士がお互いに不便を感じてくるその不便がだんだん嵩じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らして行くものと思えばさしつかえない。そうして行くうちに進歩する。」(中略)

「ほかの言葉で言うと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明しかたが悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人に善く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。よこからみても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけていく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善にちがいないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙にもちいるものが近来だいぶふえて来たようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これが一番いい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(「三四郎」夏目漱石 旺文社文庫

 

 

 面白い分析です。要するに、今の世の中、古い感覚の人間と、新しい感覚の人間がいるわけです。古い感覚の人間は、形式的で利他主義で偽善家です。新しい人間は、本質的で正直で露悪主義だというのです。そしてもっとすごいのになると、他人に対して親切をするのですが、それがどうみても偽善にしか見えない方法でやる。そうすると、それを受けた人は疑心暗鬼になり、混乱する。そういうことをする人間が増えているというのです。ちょっと分かりづらいですが、これを美禰子に当てはめると、よくわかる。

 さて、物語が進行しない代わりに、登場人物ごとに上記のような分類がなされているように感じます。人物ごとに分析してみましょう。

 

◆与次郎

 三四郎の同級生。

 広田先生に師事していて、帝大に日本人の教授を増やすように運動しているが、裏では広田先生が帝大の教授になれるように画策している。広田先生を礼賛する論文を書き、同期生を集めて集会したりします。実に行動的で、広田先生の引っ越し先の周旋から、三四郎と話をしたこともないような人物とも知り合いだったりする。

演劇会を大大的に開いたりもする。

登場人物中、最も近代的であり、平成の今にはめても現代的です。えてして、こういう与次郎みたいな人物は実際の世界では人気があるものです。やたらと交際が広く、人脈を持っている人物が今でも評価されがちですが、本当はちょっと鼻につく、軽さがあると思います。

 広田先生の分類では、正直で露悪家。

 ちょっと広田先生にとっては迷惑がっていながらも、うらやましい存在なのかもしれません。

 

◆野々宮宋八

 三四郎の同郷の人。物理学の研究をしている。「光線の圧力」について、穴蔵のような自宅研究室に籠もって計測する日々。

 広田先生の分類によれば、形式的・利他的・偽善家になる? はっきりは分からないが、年齢からそうなるのでしょう。

 よし子という妹が入院している。そこに見舞いに来た美禰子を見かけて、三四郎は美禰子を知る。よし子が退院すると、転居します。と、よし子の病気に振り回されているところがあります。

 

◆広田先生

 英語の教師。弟子である与次郎とは対照的な人物に描かれています。しばしば、作中に登場し三四郎と対面で会話をします。話中、物語を整理するような発言をします。

 よくよく考えてみると「三四郎」中のすべての人物は知り合い同士であり、どこが軸になっているかといえば広田先生である気がします。

英語の研究をしつつ、森羅万象をちょっと斜に構えてみているところがあります。独身です。(私は始め、美禰子は先生の婚約者として登場したのかと思いました)

 自身の分析からすれば、「形式的・利他的・偽善家」。あまり出世に興味がないように見えて、分析の言葉をはめれば、実は出世したいと考えているのかもしれません。遁世しているのであれば、広い人脈は必要なく、独身なのだから、一人でひっそりと生きればいいのです。それができないのも人間ですが。

 

◆里見美禰子

 三四郎を翻弄する人物。もちろん、翻弄していることを悪いことだと知ってやっていました。菊の展覧会のときには、二人きりとなり、思わせぶりな態度を取る。与次郎の失態でできてしまった借金を補填するために、三四郎は美禰子からお金を借りるのであるが、返そうとしてもなかなか受け取らなかったりする。つまりは最大限の好意を三四郎に与え続けることで三四郎の気をひくのです。

 そして婚約者ができると、さっさと結婚します。

 広田先生の分類では、最後の「人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。相手には偽善としか思われないようにしむけていく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる」という人物。要するにヒマなんでしょうかね。

 

◆小川三四郎

 主人公。福岡出身で、熊本の高校を出ている。

 母曰く、臆病者。上記したような東京の様々な人物とその世界と出会い、自分の処し方をどうするかで悩んでいる。結局、答えは出ていない。私はたぶん臆病だからだと思う。

 母と頻繁に手紙をやりとりしている。このお母さんとのやりとりがちょっと面白い。

 三四郎はそれぞれの世界の真ん中にいるイメージです。それぞれの世界と交友があるものの、どれかの世界に深く染まっていくということはありません。そのまま、大学を卒業すると、「高等遊民」(高学歴なのに、働かず何もせず、無為に過ごしている人物)になります。

 

 一応、美禰子との恋愛が「三四郎」の中心の話であるといっても良いのですが、この当時の東京を描くことが、漱石先生の主目的だったような気がするのです。つまり、「それから」の高等遊民である代助につながる橋渡しのような感じです。

 

 「こころ」が戦後に大ブームになるまえは、この「三四郎」が漱石の代表的な作品でした。それも、深く暗いものをはらんでいないからだと思います。この夏、読み返してみてはいかがでしょう。今回の縮図のようなものを意識しながら読むと簡単に読めますよ。そんなに難しい作品ではないですが。

 そうそう、もしもお金をきちんと払って読もうと思ったら、ちくまが良いらしいですよ。もうこれくらいになると、注釈がないと読めないでしょ。注釈が読みやすいらしいですよ。新潮ばっかりあるんだけどね。なかったからキンドル版を出しときます。食後に一日三回飲んでくださいね。

 

三四郎

三四郎

 

 

 

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