秋の気配に安堵するまさりんです。
今日はエアコン無しで過ごしています。風もあり、平気です。もちろん扇風機は付けていますけど。今日からジョギングの距離を伸ばそうかな。
前回の記事を書いた、一昨日まではちょっと気分が荒んでいました。気を取り直して。
今日は読んだ本の紹介です。
村上龍の「おしゃれと無縁に生きる」という本です。村上龍と村上春樹はファンが分かれます。私も若いころは、村上龍だけを読んでいました。一番最初に読んだ、村上春樹の本が「ノルウェイの森」だったことが原因だと思います。学生紛争の渦の外で、ウダウダやっているカップルの話(でしたよね?)は、若人には辛いものでした。もうちょっと枯れないと、いけません。やっと最近読めるようになりましたが。
さて、本書ですが、村上龍のエッセイと言えば、「すべての男は消耗品である」というシリーズです。はっきりいって、第一巻の冒頭から、女性の反感を買いまくること必至の文から始まります。一応、そのシリーズとは位置づけられてはいないのですが、この本もその延長線上にあると言って良いでしょう。
時代によって、村上龍のエッセイというのはテーマが変化します。今回のテーマは「信頼」、「人脈」、「老い」でしょう。他の書き手と村上龍の違いは「分からない」とはっきり言い、それが許されることです。他の書き手は、なんとかしてすき間を埋めようとします。その無理強いが後になって矛盾になってくるのです。
例を引きましょう。
(二〇一四年十二月頃のエッセイ)
デフレからの脱却を掲げてはじまったアベノミクスだが、本当にデフレが終焉に向かっているのか、たぶん誰もわからない。「第一の矢」である日銀の「異次元の金融緩和」が、将来的に適度なインフレをもたらすことができるのか、それも誰もわからない。「第二の矢」は財政出動で、その成果もよくわからない。
「第三の矢」は成長戦略だが、具体化していないものが多いし、企業減税、農業・医療改革など、政策が具体化してから変化が現われるまで、少なくとも五年や一〇年はかかる。だから、要するに、何がどう変わるのか、結局まだ誰もわからない。
特に専門家は躍起になって、答えをはじき出していくのですが、村上龍は悠々と「分からんもんは分からん」と言い切ってしまうのです。そりゃそうです。やったことないことをやっているのだから分からないし、過去やったことがあっても、条件が変わってしまえば、結果も変わってしまうのです。
ただ、これを言えるのは村上龍くらいでしょう。ファンを多く持つ作家の強みです。またはっきりものをいいます。例を引きます。
今、ある雑誌で「人生相談」の回答を書いている。どう生きればいいのかという哲学的な問いはほとんどなく、仕事に関する極めて具体的な相談が多い。(中略)
相談者が抱える悩みは切実であり、世相を垣間見ることができる。もっとも目につくのは「賃金が安すぎてこのままでは結婚もできないし将来が不安でしょうがない」というような相談だ。わたしは、「それは悩みではなく、立ちはだかる現実です」「もっと稼ぎたかったら、もっとハードに働くしかありません」という、ミもフタもない回答をした。
そりゃそうでしょうという感じです。
そんな龍さんですが、このエッセイでは「老い」や「信頼」、「人脈」という言葉が象徴的に使われているような気がします。以前読んだエッセイでは3・11直後ということもあり、喪失感が多く語られている気がしました。
最終的に個人を救うのは、経済力と人脈だ、という意識がいつのころか強くなってきています。家族との信頼感がない人間は寂しい。元気だと言われているが、そうでもない。底流に哀調が流れている気がします。
一番印象に残っている話は、表題でもある「おしゃれと無縁に生きる」か、一番最後の「我慢に利益はあるか」です。
簡単に書いてしまうと、「おしゃれに気をつかっていて、多忙な人はいない」ということです。気になった人は読んでみて下さい。もう一つは簡単にでも書いてしまうと、内容が分かってしまうので書かないようにしましょう
少々、読む人によっては説教くさいと感じるかもしれません。でも素直に読んでみると、「まあそうだよね」と言ってしまう内容です。もし今、右翼的な思想や意見、左翼的な思想や意見、両方に違和感を感じてしまうような人は、読んだら良いと思います。これを読んで、思想性をかぎ取ってしまう人は、その人自身が、思想的に偏っていると思います。そんな試金石として読んだらいかがでしょうか。