今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

映画「バベル」とカテゴライズの問題。

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 まさりんです。

 今日は素早く本題へ。

 

 映画「バベル」を見た。

 女優菊地凛子の出世作であり、問題作とも言われているらしい。もうなんか、自分がおもしろいと思った作品の他人の感想を見るのをやめようかな。とりあえず概要を書こう。

 

 異なる場所が数カ所提示され、そこで起こった出来事がパラレルに展開していくという作品。この作品の監督はアレサンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥという今人気の監督だ。近作では、「バードマン」・「レヴェナント」などを作った監督だと言えばわかっていただけるだろうか。「バードマン」などは構成としては今回と同じものである。

 さて、今回はモロッコ・メキシコ・日本が主要な舞台となる。

 それぞれモロッコでは羊飼いの兄弟アーメッドとユシフ、そして傷心を癒すためにやってきたアメリカ人のリチャード(ブラッド・ピッド)とスーザン(ケイト・ブランシェット)の夫婦。スーザンは旅の途中で狙撃されてしまう。

 メキシコではリチャード夫婦の子どもであるマイクとデビーの家政婦であるアメリアが主人公である。アメリアの息子の結婚式がメキシコで行われた。マイクたちの両親が旅行中でその代わりが見つからず、仕方なしにそのメキシコに、アメリアはマイクとデビーの兄弟を無断で連れてきてしまう。

 日本では羊飼いの兄弟の父親がジャッカル退治のために手に入れたライフルの元の持ち主、綿谷(役所広司)とその娘(菊地凛子)の葛藤を描く。

 

 さて、見ていない方には特にイニャリトゥ監督作品ということで、是非見てもらいたいので、核心部分をすべて書くのはよそう。

 

 どこが問題なのかといえば、娘千恵子らしい。耳の聞こえない人々からは、「菊地凛子」の手話がきちんとしていないという所を問題にしているらしい。また上映当時には、モロッコ・アメリカ・メキシコパートには日本語の字幕を使用しているのにかかわらず、日本のパートには字幕を使用していないので、耳の不自由な方にはそのパートが理解できなかったという問題があったらしい。

 後者の字幕の問題は配給会社の問題なので、菊地凛子に文句を言う筋合いではない。実際にアカデミー賞あてに、日本の耳の聞こえない方の代表から、意見書が提出されていて、それを読んだ。要するに、「菊地凛子に高い評価が与えられているが、耳の聞こえない人々の文化を誤解する可能性がある」ので、高い評価をすべきでない、という意見らしい。

BABEL Ms. Rinko Kikuchi's nomination for supporting role of Academy Award.

 原文は英語で書かれていて、「It might also cause misunderstanding about our culture.」という文があった。「それ(菊池さんが受賞すること)は我々の文化に誤解を引き起こす」ということである。この「our culture」とういニュアンスは伝わるのだろうか、と読んでいて思った。勝手な私のイメージだが、向こうのハンディの考え方は、「ハンディ以外」は普通という感覚を持っているからだ。耳の聞こえない人々で独立の文化を築いているとは思っていないだろう。むしろ、これを機会に、そういう独特の文化を築かざるを得ない日本社会について論じた方が良いのではないかと思った。

 ハンディがあろうがなかろうが、「できるものはできるし、できないものはできない」のである。だから、「なにができ、なにができないのか」を把握して社会に参加してもらえばよいのである。

 

 菊地凛子の手話についてである。確かにあまり手話を使っていない。ただ、これが「our culture」に誤解を与えることになるというのはそれこそ誤解だろう。不勉強なだけだし、もともと手話があまりいらない設定になっているとも思う。菊地凛子が役の感覚をつかむために、わざと耳が聞こえないふりをしてコンビニなどに行ったという話に反発している人もいるらしい。本当に難しいよ。

 

 私個人は上で書いたが、「ハンディ以外は普通の人」だという感覚を持つべきだと思っているので、「千恵子」という役の設定には逆に好感をもった。親子の葛藤も、自分自身の性をもてあます感じも、そういうこともあるだろうから。「耳が聞こえない、言葉を話せない」以外は普通なのである。

 日本であれば、確かにあれだけ精神的に荒廃した女性にさらにハンディを持たせるという設定は作り手が躊躇するだろう。反発必至だからだ。確かに日本社会では、ハンディキャップはひとつのカテゴリーになってしまう。だから、クレームを付ける方々の気持ちもわからないでもない。ただ、たとえば「千恵子」はとても性的な挑発を作品のなかでするのだが、だから耳の聞こえない人が同じ誤解をするのなら、それは作品に問題があるのではなく、偏見を持つ方に問題があるのである。

 なんでもそうだ。自分以外の人間をなぜか所属や年齢、学歴、病歴などでカテゴリーして、そこに共通の特徴を見いだす、というのは今の日本人の大きな問題なのだと思う。本当にいろいろだよ、同じ病気でもハンディでも。性格の良いヤツもいれば、荒れてるヤツもいる。頭の良いヤツもいれば悪いヤツもいる。そういうもんだよ。

 

 だから、乙武さんにしても、ニュースなどの扱いはあれでよいのである。もっとも有名人の性の取り上げ方自体には問題があるが。でも他の有名人の扱いとハンディのある方も同じでよいのである。それまでは乙武さんのことを扱うのはタブーだったらしい。裏では乙武さんが性豪なのは有名な話だったらしい。

 

 話を元に戻すと、そういうハンディがあっても、普通に葛藤し、性の問題も持っているという観点から描き、それを成立させているのだから、菊地凛子は評価されるべきだと思うなあ。手話とかの問題があるのなら、それは監督の問題だろう。そういう役にしたのだから。

 

 

 

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