まさりんです。
GWも中休みですね。ん? 逆か。明日からが中休みですね。家族がいる人、特に子どもと親戚が多い人は、もしかすると、GWで逆に疲れ切ってしまうかもしれませんね。ゆっくりいきましょう。
さて、今年のGW、我が細君はもともとカレンダー通りの休暇である。それと同時に三連休ももしかすると出かけることができないかもしれない。だから、昼食くらいはどこかで食べようということになった。ちなみに炭水化物を制限しているのだが、日曜日は食べても良いというルールにしているので、普通に食べに行った。
だが、お日柄も良く、一件目のお目当ての店は混んでいた。「すいません、せっかく来てもらったのに満席で・・・・・・」と帰ってくれる? 的な扱いをされたので、すごすごと帰った。帰りがけに夕食の割引チケットをもらった。夕食はたぶん、ここには行かない。
二件目は駅前まで歩いた。今日も蒸し暑かったが、昨日も日が照っていて、ちょっと汗ばんでしまった。
二件目の店がどんな店かは、ここでいろいろ書くから伏せておこう。
入るときに少々待った。席を作るのに少し時間がかかったのだ。店自体は父・母・息子でやっているような小さな店だった。一番奥の四人がけの席に通された。入り口に近い二人がけの席もあいていたが、まだ前の客の皿をかたづけていなかった。
四人がけに座って、そとのメニューで決めておいたので、素早く注文をして待った。
カミさんは壁際、私は通路側の席に座った。通路側といっても、通路を隔てて逆側のせ機はない。だから、本当は両方とも壁際だ。私の右側にも四人がけの席があった。右側の席の壁際には両親が座っていた。私の方からは両親しか見えない。私たちに近い側は父親、遠い側には母親が座った。年齢は六〇に行くか行かないか、というくらいだ。私のすぐ右側には娘が座っていた。後で確認したのだが、三〇に行くか行かないか、というくらいの年齢だ。私が娘の方を確認しようと思ったら、思い切りのぞき込まないと見えない。
家族はけんかをしていた。
まとめると、娘は一人暮らしをしていて、彼氏がいる。ここからが私とカミさんの解釈の差であるが、私はこの彼氏に連れ子がいるととった。カミさんは彼氏と同棲している家がある。もっといえば、この娘の家に転がり込んだ彼氏がいるととった。とにかく、問題の男の名前は「あずさくん」だった。
私が連れ子ととったのは、「あずさくん」とそいつを「くん」付けしていたからだ。女子高生ならいざ知らず、いい歳して恥ずかしい行為だ。だから、自然と彼氏説を頭の中で除外して聞いていた。
話を戻すと、そんな状況のなか、母親がなにか粗相をして、娘が激高したのだ。
カミさん曰く、「あずさくん」との同棲のこと、実態は両親に伏せて起きたいことだったので、母親が二人の巣に行きたいと連絡したときに、なぜか娘はやんわりと「来ないで」とメールで伝えた。様子がおかしいので、母親が突撃したのだ。
前半は(全部で数十分けんかは続いた)、娘が「もしもあずさくんがいたらどうするの」ということを盛んに言っていた。カミさんにとって「あずさくん」は彼氏なので、「はちあわせしたらあずさくんがどんな反応をするのかわからない」ということになる。
私にとって「あずさくん」は連れ子なので、「自分とあずさくんの父親が上手くいくかいかないかの微妙なときに、あずさくんとお母さんがはちあわせしたら、あずさくんがどんな反応をするのかわからない」というのだろう、と思って聞いていた。
だんだん、自分の解釈が正しい気がしてきたが、事実はたぶんカミさんだろう。
そこから、いかに母親がだめなことをしたのかを娘が説教するのだが、激高している上に、後ろめたさが娘にあるものだから、なんとも説得力がない。父親は狼狽していた。
「そういうことは人間として気づかなければいけない」ということを娘が盛んに言っていたのを聞いて、「この女ネットで相談したのかな」と思った。どちらかが正義で、どちらかが悪だという決めつけはネットで頻繁に行われる。二進法のもとで行われるその行為は、ほとんど意味がない。しかも聞いたら人間関係が破綻するというアドバイスも平気でする。人間関係のたいていの問題は、「あやふやにする」のが一番の解決方法なのだ。あとは時間が経てば、変化するかもしれない。それを待つしかない。だめならば、ゆっくりと離れていけば良い。良好な関係だって、時間とともに変化し、離れていくこともある。とどめを刺さなくてもよい。
三人のうち誰かが、「それでは話が進まない」というキーワードを出すと、三人とも模倣して「それでは話が進まない」と連呼していた。笑いそうになってしまった。
他の席の客もみな沈黙していた。店員(息子)が、食べ終わった父親の膳と母親の膳を次々に下げていった。娘が激高するたびに、顔を出し、『頼むよ』という感じで客である、父親を見ていた。
なんとか収集しようとしたのか、父親は娘の味方に付いた。
最終的には、母親が「もうあなたが元気で生きていればいい」と諦めた。娘は父親と笑いながら、「それでは話が進まない」と母親を詰っていた。
こんな状況で食事を出されても味がわからないと判断したのか、我々のメニューを運ぶのをだいぶ待ってくれた。
やっと三人が出て行った後に、当然、「今のどう思う」という話になる。カミさんに「どうせ小説とかで使うんでしょ」とちくりと言われ、「だからちゃんと聞いてた」そうだ。
さて、みなさんは誰が一番悪いと思ったか。
我々夫婦の答えは、「1,娘、2,父親の順で悪い」だった。
どの立場で話を聞くかによって答えは変化すると思う。我々には子どもがいない。だから、立場としては娘の立場だ。しかし、我々夫婦は結構複雑な思いを両親に抱かなければならないような環境で育ってきた。そのため、親に対して期待は一切していない。この辺りが、娘の対応を批判する理由につながる。
それに激高して大声で何かを言ったら、相手は心を閉ざすだけだ。現に母親は「もうあなたが元気で生きていればそれでいい」と言って泣き出していた。心を完全に閉ざしてしまった。交渉の方法として、外で母親に恥をかかせながら、大声で説教するのは愚の骨頂である。もう諦めるしかないのだ。
私はおそらく高校に入るまでに、カミさんも中学のころには、親とは将来距離を取ることになるだろう、と思わざるを得なかった。詳しくは書かないけど。関わらない方が平和で建設的な関係を築けるのだ。つかず離れずの位置が一番幸福だ。近づきすぎると果ては最悪の事態になるだろう、という直感もあった。私の場合は。
だから、娘の対応はいかにもお粗末だと思った。私だって高校くらいからは、諭すように母親と話すことが多かった。それでも直らないだろうと思いながら、種々のお願いをしていた。不思議にそれくらいの熱量で距離を取った方が、上手くいったりする。なんだか、小学生の子どもがわがままを言っているようだった。「無理を通せば道理が引っ込む」を実践していたように見えた。
次に父親だ。
この人が社会でどう生きてきたのかがよく分かる。勢いのある方について、勢いのないものを貶めるような生き方だ。だが、ことが自分の妻だと話は別だ。池波正太郎などは、自分が嫁姑の仮想敵国になることで、平穏を保っていたそうだ。そう、家族がもめた場合、軽々にどちらかについてはいけないのだ。もちろん、明らかに非がある場合は別だ。そのときはたとえ自分の子どもと一生会わないような関係になってでも説教すべきだ。
しかし、この場合、お互いがお互いに対して気持ちの正当性が存在するのであって、ネットみたいにどっちが悪いとか良いとか判断してしまうのは間違っている。だって、逆をとれば、親に言えないような相手とつきあうのが悪いとも言えるのだから。心配して母親が見に行ったって不思議ではない。これだけ幼稚な娘なのだからどんな相手とつきあうのかは心配だろう。連れ子であった場合はもっとだ。こういう結婚は難しいのはわかりきっている。
父親としては、まずは自分の家でもめること(^_^;)、次にどうせやるんなら、娘と母親双方の非を上げて両成敗にすること。そして、時間をかけて修復していくしかないだろう。
六〇近い親に変われと言ってもどだい無理である。
おいしく食べ物をいただいて、お勘定をする。「どうもすいません。うるさくて」と言われたので、感謝の気持ちを込めて「料理待ってくれたでしょ?」と聞いたら、なんだか聞こえていない様子だった。まあ、いいかと店を後にした。
※私にはそうは思えません。