今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

拡張版、「桜の季節」

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「覚悟」

 シンイチの卒業式から一週間が経過した。

 コウスケが夕方に来るというので、蚊取り線香と酒、七輪と簡単なつまみをもって、ウチの裏山にある自慢の桜の木の下で、夜桜見物をしようということになった。

 例によって、コウスケは予定の三〇分後にやってきた。もっとも、そうなるだろうと、目安の三〇分前に来るように言っていたから、予定通りなのだが。

 桜が咲いていてもまだ寒い。特に夜は寒く、コウスケはダウンジャケットにニット帽を被ってきた。手袋までしている。コウスケにはちょっと大きめの七輪と、酒を持ってもらった。私は徳利とぐい呑み、そして燗するため水の入った土瓶、アテに買っておいたあたりめとバタピー、そして蛤も入った桶とゴザを脇に手挟んでいた。あたりめと蛤は焼きながら食おうというのだ。

 

 山に踏み込むと、夜気と森林の湿度に身を浸される。

 手入れされ、屋根のように上の方にだけ葉のついた杉木立に囲まれて星も見えない。

 歩を進めると、おそらく夜露の付いた雑草が足を柔らかく撫でる。

 獣道を勘を頼りに進む。

 前方にぽっかりと、光の差し込む場所がある。そこを目指すのだ。

 近づくと、顔面に向かって何かが飛んできた。

 桜花である。

 

 光の差し込む場所は、何かでくりぬいたように円形になっていて、円形の周囲は杉木立が立つ。円形の真ん中には見事な枝振りの桜木が泰然とその巨大な幹を立てている。杉木立はまるで桜木の邪魔をしないように気をつけているかのようである。そのおかげで、昼間は日光、夜半は月光が差し込む。

 巨大な幹は四方に大きな屋根を作る枝を支えている。夕方になって吹き始めた風に、枝先は上下にゆったりと揺れていた。杉木立を抜け、歩いてきた方を見ると、散り、飛ばされた桜花が絡みついて、周囲の雑草まで桜花をまとっていた。

 風に揺られ散る桜花は、五月雨のように、地面、根、周囲の土、雑草などを目指して飛んでいる。仲間の桜花の上に勢いよく落ちるからなのか、着底する瞬間にぼたぼたという音を発している。飛んでいる桜もその身を仲間とこすり合わせ、サラサラという音を立てていた。昔、長野で同じような音を聞いた。それは雪の音であった。

 田舎の山のなか。蛙の合唱には早すぎ、虫もそれほどおらず、静謐であった。だからこそ、このような音が聞こえるのだろう。

 

 桜の根元にコウスケがさっとゴザを敷き、私が諸々の入った桶と七輪を置く。桶の中身をゴザの上に出すと、そのまま桶がぐい呑みと皿置きになった。

持ってきた七輪のなかにはすでに炭がおこしてある。が、七輪に向かっても桜花が舞い落ちる。炭火に焦がされ、真黒な炭になった。

 ――ちょっと待ってろ。

 コウスケが走って行った。

 土瓶を七輪の網の上に置く。湯が沸いたら、そこに徳利を入れる。

 桜花の侵入を防御するのもかねて、手をかざして暖を取る。とても私の両の手では防御しきれはしないが。

 ふう、と息をかけると、くすぐったいのか、炭が赤く反応した。

 やがて、コウスケが傘とギターケースを抱えてきた。

 傘を開き、風向きを考えて、七輪の上に置く。

 ――こうすれば、花びらが入らないだろ。

 といって、コウスケはにっこり笑った。

 持ってきた黒いケースを開けると、アコースティックギターが出てきた。

 アコースティックギターを抱えて、桜の根に腰を下ろす。私は一升瓶から徳利に酒を移し、湯の沸いた土瓶のなかに、それを入れた。ぐい呑みに入った桜花をふっと吹き飛ばす。コウスケの差した傘には桜花がぶつかり、優しい雨が降っているような音がした。

 コウスケはユパンキの「牛車に揺られて」の冒頭を引いた。悲しい旋律が舞い降る桜花とマッチした。

 ――そういうのも弾くんだな。

 ユパンキはこれしか知らないけどね。歌はさすがに歌えないな。

 私が差し出した燗酒の入ったぐい呑みを受け取り、コウスケは飲み干した。土瓶を少しだけずらし空きを作ると、そこに蛤を二つ置いた。コウスケは干したぐい呑みを桶のなかに置いた。

 次はブルースの曲だった。

 ――それはなんて曲だい。

 ――ああ、こう弾くと分かるかな。

 コウスケはクリームの「crossroad」のリフを弾いた。

 ――わかるよ。

 ――この曲はカバーなんだよ。もとはロバート・ジョンソンていう人の曲だったんだ。

 元の曲は牧歌的な曲だった。これは散りゆく桜と似合っているのかどうか、私には分からなかった。合っているようで合っていないようで。

 蛤を皿にのせ、コウスケに渡す。フーフー入念に吹いてから、殻のなかの汁を呑んでいた。桜花が皿めがけて降ってくる。

 

 酒を呑みながら、コウスケがつま弾くギターを聞いていた。ギターのペグや弦に桜花が絡む。ネックやボディに桜花が乗る。ある程度たまると、コウスケがチューニングが狂わないように取り除く。青白い月明かりが煌々と照らしているのだが、桜の巨木の根元にいるので少し暗い。円の外周にあるものは青白く照らし出されている。外周のその向こう、羊歯などが生い茂っているだろう草藪から、誰かが歩いてきた。大人にしては少し背が低い。

 黒いシルエットが月明かりに照らされて、その姿を急に現すと、それはシンイチであった。月光に透かして腕時計を見ると、二〇時をまわっていた。中学生が平気で出歩いていて良い時間帯ではない。

 近づいてきたシンイチはゴザに膝をついた。

 どうした。

 ――いえ塾で聞いたら、ここにいるって。

 ――そうじゃない。どうして来たのかと聞いたんだ。

 ――先生にこの前いろいろお世話になったからお礼を言おうと思って。

 初めて会ったときからそうなのだが、シンイチは正面にいて話すときなどはどうしても神経が緊張状態になる人間だ。唯一、シンイチだけだ。どうしてもピリピリしてしまう。突き放したくなるのだ。

 

 私が発するピリピリとした空気を察したのか、コウスケは「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾き始めた。プロの演奏だと恐ろしく上手に聞こえるが、下手くそが弾くと思い切り下手くそに聞こえる曲だ。コウスケの腕前はまあまあだろう。

 シンイチは曲が始まると、ゴザに腰を落ち着けた。

 ――来るとは思っていなかったか飲み物もないぞ。するめでも食うか。

 と聞くと、丁寧に固持した。

 そのまま、丸一曲演奏を聴いた。私は手酌でぐい呑みを傾け、シンイチは桜が舞うのを見たり、コウスケの運指を見つめていた。弾き終わると、おお、と拍手した。

 ――先生、先日はありがとうございました。

 シンイチは頭を下げる。

 ――迷惑じゃなかったかい。

 と聞くと、とんでもない、とおおげさに顔の前で手を振った。

 そのあとにみんなで食事会をしたのだが、そのときに母親が男と歩くのを見たのだそうだ。

 ――ああ、これで子どもで居られるのも終わりなのだろうと思いました。

 おそらくその時は動揺したであろう心も、落ち着いたのだろうか、冷静にそう言った。

 ――何を言っているんだ。中学生が親を頼らないで生きられはしないんだ。

 と私は言った。

 ――だから、塾で雇ってほしいんです。

 シンイチは身を乗り出して、ゴザに手をついた。

 ――馬鹿を言うな! 中学生を雇えるはずがないだろう。中学生なんだから、何があっても親に頼るんだよ。従うんだよ。媚びるんだよ。それが正しい道だ。

 ――ケンジ、お前なんか違うよ。シンイチがさっき言ったのは、覚悟の話だよ。自分が親の期待に背いて、しかも親子関係は破綻寸前になっていた。学校の用件まで放り出すような状態だよ。仲が良いなんて言えないだろ。それで母親が知らない男と仲睦まじく歩いていた。自分が母親にとって邪魔な存在になったら、理屈じゃなく、自分でなんとかするしかない状況になることだってあるんだ。見捨てられる。そういうことだってあるんだ。物わかりが良いとか、悪いとか、道徳的に正しいとかそういうことを言っているんじゃない。

 親子が終わるかもしれないという不安と覚悟だよ。その男を受け入れるとか、そういうことじゃないよ。受け入れざるを得ないとかそういうことでもない。捨てられるかもしれないということだよ。世の中、そういう例だってあるんだよ。親子が一緒に暮らさなくなる事態だってありうるんだよ。親がみんな良い親とは限らないだろ。

 『どうしてそんな面倒に私が関わらなければならないのか』

 そう言いそうになって気づいた。そうか、きっと私がシンイチについて怖れているのはそういうことだ。すべてを私が面倒を見なければならないという事態だ。できるわけがない。分かっているから、拒否したいのだ。子どもというのはそういう存在だ。ぬるぬる、するすると私の人生に、生活に入りこんでくる。

 気が小さいものだ。器も小さい。

 それをいろいろ言い訳して、居住まいだけを繕うような生き方をして。

 私がシホとの結婚から逃げているように、自分で感じるのはそういう理由かもしれない。

 急に笑えてきた。

 情けない。

 コウスケとシンイチは、呵々大笑する私を、ぽかんとした顔で見ていた。

 一塵の風が吹き抜け、コウスケとシンイチの顔を大量の桜花がたたきつけられる。

 ぼかりと開けられていた口の中にも桜花が入り、必死に取り出している。

 それでも。

 ――雇うのは無理だ。今までどおり、飯くらいは食わせてやる。うちは農家もやってんだ。食い物には困らないさ。でもそれ以上はだめだ。

 区別がなくなる。

 きっと田舎の名家なんてこんなもんだ。臆病なのだ。臆病だから、築いた財産を無くさないだけだ。区別をなくすことを許せば、最終的にはシンイチはウチの子どもになっているかもしれない。面倒くらいでは収まらない事態も出来する。

 おそらくシンイチはそういう事態を肌で感じているのだろう。最悪の事態を。若者の肌感覚だ。我々よりも直感的に嗅ぎ取っているのかもしれない。私たちだってそうだ。中学生のころは、顔見ただけで大人の優劣が分かった。そういうもんだ。若いから馬鹿なわけじゃない。年取ったって馬鹿はいる。いろいろなのだ。

 シンイチは、

 ――ありがとうございました。

 と言って、立ち上がって、暗い森へと走り去っていった。

 ――軽蔑しても良いよ。

 ――しないさ。ちょっと期待したけどな。養子にしちまえばいいのに。シホと結婚する話ほどは、おじさんおばさんも反対しないと思うけど。

 コウスケはいたずらっぽく笑った。

 冗談じゃない。気づいてたのか。それで煽ったのか。悪趣味な。

 にらみつけると、ははは、と大口を開けてわらった。桜花がその口に入った。

 

 次の授業の日、何事もなかったように、シンイチは塾に現れた。

 その姿を見て、最終的に最悪の事態に陥った場合、自分が助けざるを得ないと予感した。

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