池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

今の心境にあわせてブログ名を変更しました。どうぞよろしく。肩の力をさらに抜いてやります。

千と千尋の神隠し

映画 雑記

 

 まさりんです。

 録り溜めてあった映画を見た。

 「千と千尋の神隠し」である。公開当初、当然成人していたが、なんとなく見に行きたくなくて劇場に行かなかった。その後、「風立ちぬ」は「見に行かなければ」という思いが募り見に行ったが、その前の作品で劇場で見たのは、「もののけ姫」だ。九十七年に「もののけ姫」が公開されたから、二〇一三年に「風立ちぬ」公開まで一六年も行っていない。どうしてか。「もののけ姫」の説教臭さにやられたのだ。いずれ書くかもしれないから書かないけれども。

 宮崎駿作品はどちらかというと、「天空の城ラピュタ」とか「紅の豚」とか説教臭くないものが好きなのである。

 ちなみにであるが、正しい年数を調べるために、wikipediaの「スタジオ・ジブリ」の項を参照したが、ジブリのなかには、いくつかレーベルがあるのだそうだ。文字通り「スタジオ・ジブリ」、「スタジオカジノ」(『式日庵野秀明、『サトラレ本広克行など)、「スタジオギブリ」(『ギブリーズエピソード2』百瀬義行)などがあるらしい。それに、製作部門が休止になるとは聞いていたが、二〇一四に製作部門の社員は全員退職したのか。いずれ気が変わって宮崎駿が再び映画を作るかなと期待していたが、それもなく、他の監督さんも作らないのだろうか。

 

 話がそれた。

 「千と千尋の神隠し」は制作費一五億円を投じて作られた。興行収入は三〇四億円を誇る。一〇歳の小学生である千尋が、引っ越し先に向かう自動車でふてくされているところから物語は始まる。引っ越し先の家は丘の上にあったが、父親の運転ミスにより、鎮守の森のようなところに迷い込む。そこにはモルタル製で今は廃墟になっているテーマパークのような門があった。千尋の両親は、引かれるようにそこへ入って行ってしまう。

 奥には川と草原があり、草原の向こうには今となってはそれこそテーマパークのような食堂街があった。昭和時代の商店街のようで、他のアジアの国の町並みのようで。食堂のカウンターの上の台に並べてあったごちそうを見て、両親はむさぼるように食べてしまう。二人は豚になってしまう。

 

 食堂街の奥には湯屋があった。

 その入り口で禿頭の少年と出会う。少年は「ハク」と名乗る。ハクは千尋に、日が落ちる前にここから出るようにと告げるのであるが、千尋は逃げそびれてしまう。このままでは千尋も動物にされてしまう。ハクの奨めで、湯屋の地下にあるボイラーのような部屋で働く、釜爺に会うことになる。釜爺の助けもあって、湯屋の経営者である湯婆と契約する。契約するときに湯婆はそのものの名前を奪って支配する。千尋も「千」という名前になる。

 

 釜爺自身のデザインが、天空の城ラピュタの「タイガーモス号」のベテラン技師である「じっちゃん」であったり、ボイラー室で石炭らしきものを運んでいるのが、トトロの「まっくろくろすけ」だったり、過去の作品との重複もいろいろ見られて、ファンはそれだけでうれしい作品なのではないか。

 

 湯屋のモデルはいろいろあるらしい。

 公開当時、そのモデルの一つである、目黒の雅叙園で行われた、假屋崎さんの展覧会にいった覚えがある。彼の作品は生け花とかフラワーアレンジメントみたいな枠を越えた超絶な作品が多かったのを憶えている。すべての作品が和室の壁に掛けた一幅の絵であるような、想像力に満ちた豪快な作品であった。と同時に、和風の建築であるが、、雅叙園の内部がちょっとした迷路のようであったのをよく憶えている。その雰囲気が良く出ていた。

 同じように道後温泉日光東照宮江戸東京たてもの園の子宝湯が、町並みは新橋烏森口、有楽町のガード下、などを想起しているようだ。海外の建物がモデルになっているという噂があるが、ただの噂らしい。

 

 宮崎駿の作品は骨太のメッセージが物語を支えていることが多い。今回の作品は「労働」だろう。それはキャラクターの設定にも現れている。

 千尋は今までの宮崎作品の特徴的なヒロインと違い、普通の少女だ。それは目に一番現れている。今までは大きく、意思の強そうな目をしていることが多かった。そして、はじめは何かがあると怯んでしまう臆病さもあった。釜爺の元へ行くには湯屋の外階段を下りる必要があった。外階段には手すりも無く、階段の外は海である。そろりそろりとしか千尋は降りられなかった。

 しかし、湯婆と契約をして労働をしてから、つまり居場所を与えられた後は、急激に彼女は強くなる。しかも、その勇気を他者を救うために遺憾なく発揮していくようになる。このあたりにも宮崎の労働観が現れている。

 

 坊という湯婆の子ども? が出てくる。坊は大きな赤ちゃんという風貌で、湯婆が子ども部屋に閉じ込めて暮らしている。「外に出ると病気になる」と言い張る坊に対して、「こういうことをしている方が病気になる」と千尋は言う。二人はちょっとした旅に出る。旅を通して坊は強くなる。坊は「ひきこもり」を表しているのだろう。

 

 同時にハクは環境汚染をやはり意味している。ナウシカからずっと続く宮崎作品のテーマだろう。

 

 難しいのは「カオナシ」である。彼は人の欲を吸って大きくなる。大きくなったのに、「寂しい」と言う。金を渡してもなびかない千尋に対して放った言葉だ。公開が二〇〇一年だと考えれば、やはりIT系の社長でも表しているのか。

 

 ただ、こう読み取るのは可能なのだが、子どものように、楽しい映画だと思ってみるのがやはり正解なのではないだろうか。

 

 絵は面白いのであるが、物語として面白いかと聞かれれば、そういう裏のメッセージを考えてしまうところが鼻につく作品でもある。ただ、おとぎ話やファンタジーに寓意がなければそれはそれで面白くない。どうして宮崎の入れた寓意がつまらないと感じるのか。おそらくチープだからだろうけど。左翼臭が強すぎるからだろうか。

 労働の重要性を説くのはよいが、労働のイメージが古すぎるのかもしれない。肉体労働が大幅に機械にとって変わられそうな昨今、汗を流す職業だけでは食べていけないという危機感がある。それは〇一年でも同様だ。いや、あのころのほうがむしろ強かっただろう。いまは弱まったわけでは無く、当たり前になってしまった。

 労働者のモデルとしては、収入が上がり、地位が上昇するという前提で社会は組まれている。そう考えれば、将来性のない仕事をしたくないという若い人の気持ちも分からなくもない。肉体労働者やいわゆる「三K」に近いサービス業などは現場はたくさんあるのに、人手不足なのだそうだ。いずれ工事は終わる。それに、こういう現場こそ将来的に機械化が急速に進むだろう。そう考えれば、こういう仕事に就きたくないというのは当たり前のことだ。

 そういうことを見ながらつらつら考えてしまった。良くない見方である。

 

 

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