まさりんです。
昨日、書店に併設されている喫茶店で、アイスティーを飲みながら、沢木耕太郎のエッセイをぺらぺらと見ていた。それは写真とコメントのようなエッセイが付いている本だった。例えば、笑顔で肩を組んでいる子どもが二人写った写真についてである。要旨を書くと、「最近の子どもは肩を組んで歩くのだろうか。肩を組んで歩くのは男の子のイメージがある。が、最近は男の子が身体の接触を嫌うようになっていると聞く。しかし、それは昔からじゃないかもしれない。かくいう私がそうだったからだ。ベトナムで肩を組んで歩く男の子を見たときに、ちょっとうらやましいと思った」というような文章が書いてあった。国名については記憶が曖昧なのだ。東南アジアのどこかの国だったのは確かだ。
それはカミさんの本であって、カミさんがハーフサイズのワッフルを食べる間、私がぺらぺらとめくっていたわけだ。
それにしても沢木耕太郎はエッセイやルポがうまい。
「俺って沢木耕太郎の小説を読んだことがあったっけ?」
「それこそ、中瀬さんが紹介していたやつが沢木耕太郎の小説だけど、結局読まなかったよね」
「『二四六』のやつって小説だっけ」
「違う」
そんなやりとりをしていて、気づいた。
小説に向いている人間と、エッセイに向いている人間と、生き方に差があるのだと。
むろん沢木耕太郎は「深夜特急」で日本からイギリスまでバスだけで旅行した。これは友人との賭けがきっかけだった。冒頭のエッセイにしても、様々な場所で撮った写真が載っているわけで、それだけ行動して撮っているのである。
小説はもちろん取材をして書くこともあるだろうが、基本的に一定の場所で着想を練っていく。
「誰だっけ、あのよくモンゴルで馬に乗っている人、川の話でテレビ・・・・・・、『23』だっけ、『ニュースステーション』だっけ出てた人、えーと」
「あの人だよ、あの、訛ってる」
「椎名誠」
「そう、椎名誠。あの人って」
「だって、椎名誠はエッセイで有名になった人だからね」
私は満足した。
「どうして満足顔しているの」
どや顔をしていたらしい。
ブログはどちらかといえば、エッセイやコラムに向いているメディアだ。
これまではエッセイと小説の差はなんとなく、「書き方」だと思っていた。しかし、これで飯を食うレベルにするには、書き方だけじゃなく、行動が必要なのだと思った。(あと、ブログでは鉄のメンタリティ)
よくよく考えれば、エッセイが上手いと思っている方々のブログは大抵きちんと行動をして、それを記録している人だ。それは生活の一コマだったりするのだが、それをつぶさに観察して書いている。観察対象は何でもかまわないのだけれど、限度がある。
互助会を批判しているやつがいてTwitterのアカウントから辿っていくと、ろくでもないブログだったりする。ずっと、変哲もない晩飯を、キャプションも説明も何もなしに上げ続けるものもいた。自分で作ったのか疑わしい、おそらく母親が作った生姜焼きと家庭料理としては最上だが、外にお見せするほどではないお味噌汁。誰がこれを見るのかと思うと、きちっと星が付いていた。それでいいのである。いいのであるが、他人を批判できるほどのものではない。三〇〇記事くらい書いてきて、あまり他人を批判することはしないできたつもりだ。それは自分がそれほど偉くはない、という事実によってである。どうして、あのブログで思い上がられるのかが理解できない。
一応書いておくが、私は互助会に与していない。一部認定されているようだ。が、互助会のかたがたがブックマークおよび、スターをくれる行為は大歓迎だ。来るもの拒まず、の精神である。ただし、返報性はないかもしれないと思っていてほしい。
かといって、古参(小さん)師匠たちのようにクールでもなく、仲良くするブログもある。といって、一時期より登録していたブログの更新が下がってきたこともあり、新しく読書登録を増やしている。新しく読者になった場合、挨拶もないがそのときは、どうぞよろしく。
「互助会=(私にとって)つまらない」のレッテル貼りになってきたなあ。
話を戻そう。
小説書きはどちらかといえば、内にこもる傾向があるのかもしれない。
考えてみれば当たり前で、膨大な量の原稿を書くには当然、屋内に閉じこもる時間が長く必要なわけだ。
なんとなく、エッセイ上手と小説上手は両立しないな、と感じていた。どうしてかといえば、こういうことも理由なのかもしれない。外で行動をするのが好きな人は、長時間屋内にいる生活は耐えられないだろうし、長時間屋内で原稿を書くのが得意な人は、毎日毎日どこかへ出かけて何かを得てくるという生活は苦手だろう。
そういう結論に達してから思った。村上龍のエッセイを取り上げて、最近の村上龍は、加齢のせいか、出かけるのがイヤになった、ということを紹介した。それは地が出たのではないか。もともと、日本にいるのが不快で外国に行きまくっていただけで、本来は家にいたいタイプなのかもしれない。