今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

父の思い出

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トピック「父の日」について

 

 まさりんです。

 ああ、だめだ。天候のせいか、どうにも鬱々としている。こんな日は何かを書いてもろくなことがないのだけど、それこそ陰気に誘われて、駄文を書き連ねてしまう。

 こんな日は他人をうらやんでしまう。とはいうものの、以前書いたけれども「嫉妬」とは違う。どろりとした陰鬱な目で他人のことを「すごいね」と思いながら、自嘲気味に鼻で笑うのである。

 他人の持っているものが羨ましいのであるが、もはやそれを欲しているのかは自分でもわからない。だから、自分が嫉妬しているのかどうかは分からない。

 

 はてなブログのランキングを見て、購読しているブログが多くの支持を得て、ホットエントリーになっていたりする。「おお、すごいね」と思う。でもたぶん自分は永遠になれないのだろうという思いがある。ここ、かしこで「つまらないブログの書き手」というレッテルを貼られている。気にしすぎなのであるが、「自分と絡むの、他の人はいやなんだろうな」なんて思ってしまう。いっそブログ自体を止めてやろうかとも思う。

 ほとんどのブログの書き手は半年で姿を消すらしい。そしてほとんどが更新しなくなる。「こうしん」と打って変換する。「後進」になる。「うって」は「売って」になる。いらいらする。ATOKを使っているが、リセットしてしまおうか。

 半年で終わるものが、もう二年くらい続いているのだから、そのままやったらいいと思うが、ハナからつまらないとレッテルを貼られているものを続ける意味があるのか。下手の横好きとして続けるのだろうが。

 

 「父の日」。みなは感謝するのだろうか。

 父がどういう人間だったか。こういう自分についての記事をなるべく書かないようにしてきた。なぜなら、小説を書くと決めたからだ。読み手にとって、書き手の情報はときとしてノイズとなる。だから、なるべく書き手の情報を開示するのも止めていたのだ。それにネタをわざわざ書く必要もない。鬱陶しい、イライラする気分を高揚させるために、父のことを書いてしまうが、もしかすると後日消すかもしれない。

 しかし、どうせ小説を書いても、何万人という固定の支持者がいるわけでもない。書いてしまってもいいのであるが。今日は書いてしまえ。

 

 父は北海道の出身だ。

 厳格な親に育てられたらしい。泳げなかった父は青函連絡船から突き落とされて泳げるようになった。もちろん父の言うことを信じれば。父は希代の虚言家でもあった。希代はおおげさか。しかし子どもからすれば、親が嘘をつくというのは「希代」に値する。ちょくちょく嘘を言うというのが本当の感覚だ。

 そんな父の両親は幼少の折、交通事故で死んだ。青函連絡船から子どもを突き落とすような短絡的な男、事故で死ぬというのは少し分かる。そこから、父は親戚をたらい回しになる。四〇代の私の親だから、父の世代の大学進学率は低い。それに親戚をたらい回しになっているような状況だ。とうてい大学の学費など出してもらえなかっただろう。同じようなものが多く存在していて、実技系の学校でも結構優秀な学校が存在していた。そういう優秀な実技系の学校の出身だそうだ。そこで部活をやりインターハイに出場した。

 

 私は他人の自慢話を聞いても、なんら心が動かない。なぜなら、こういう父親が身近に居たからだ。すごい父親だと言いたいのではない。全く逆だ。先に挙げた学生時代の話。私にはすべて嘘に聞こえた。彼が話すとどうにも嘘っぽいのだ。学生時代の話を聞かされたのは、父親が人生の絶不調期であった。人生の谷にいる人間の自慢話は、すべて嘘に聞こえた。人は不調だと過去を振り返りたくなるらしい。

 これが原因だと個人的には思っているのだが、他人の自慢話は基本的に嘘に聞こえる。心が動かない。だから嫉妬しないのかもしれない。「すごいね」、「信じられない」と話を聞きながら、話し手の気持ちが高揚する相槌を打つが、その実、まったく信じていない。文章で書かれるとまだ真偽を判定できる。が、口頭で聞かされた場合、全部嘘に聞こえてしまう。

父は私が子どもの頃、地域で学生時代にやっていた競技の指導者をしていた。その競技をやっていたのも間違いないのだろうし、優秀な選手だったのかもしれない。ただ、息子の私は、今でもすべて嘘だと思っている。

 さて、その父は高校卒業後、関東に出てくる。もしかすると追い出されたのかもしれない。親戚からするとやっかいものだ。そして母と出会い結婚する。

 

 私が小学生を卒業するころ、父は独立した。今の私より少しだけ若い年齢だ。

 父の人生はこの時点をもって終了した。

ときはバブル終了間近。父はそんなことも知らなかっただろう。

「独立する」と聞かされた私は動揺すると同時に、「新聞のスポーツ欄しか読まないのに、良い度胸だ」と思った。中学生になったころくらいだろう。父は食事のときに電車のなかで新聞を読むときのように、コンパクトに畳んで新聞を読んでいた。いつもスポーツ欄だけだった。

我が家は産経新聞を取っていた。安いからだ。だが、産経新聞がどういう特色の新聞で朝日新聞とどう違うのか、当時の彼は知らなかっただろう。それともスポーツ欄でも新聞の特色は多少は出るのだろうか。

大人になってしまった馬鹿に付ける薬はない。実際に母方の実家は独立に大反対したらしい。それでも止められなかった。私は元の会社の同僚に見送られ、酒で顔を赤くし、花束を持って帰ってきた父を見て、説得を諦めた。

 バブルが弾けてしまい、父の目算は崩れた。

 事態を打開しようとする気力もワイルドさもなかった。

 息子の私の目で見ると、父は公共事業を当てにした事業展開を想像していたらしい。バブルが弾けて社会的な批判もあり、九〇年代からは公共事業は縮小されていく。

 そんな状態になっても、父が新聞のスポーツ欄以外に折り目を付けているところを見たことがなかった。

 

 厳しい生育環境であったからか、父には常識もなかった。ある日父宛に届いた郵便を盗み見した。父は連帯保証人になっていた。高校時代だったろうか。愕然したことを憶えている。当然母も知らなかった。

 

 父の経営する会社は、私の知る限り、常に破綻状態だった。

 家庭の経営もどうしようもなく、母方の実家に借金をしまくっていた。

 これが仕事でなく、ギャンブルとか女で作った借金なら、おそらく弟と父をボコボコにしただろう。それに・・・・・・。

 母方の実家への借金も、実家を抵当に入れた借金も、すべて最悪の状態になってから話を聞いた。常に新しい事業をするときには、借金をしないと仕事自体がまわらず、その話も借金をサラ金からしてから聞いた。アドバイスのしようもなかった。サラ金は、よくこんな事業計画で融資するな、という計画でも平気で金を出した。要するに、我々が住んでいる家と母方の実家の土地などが目当てだったのだろう。調べればそんなものはすぐ分かる。

 大学生のとき、サラ金で借金をさせられそうになった。自動の受付機で個人情報を入力させられ、審査をされたのである。社会保険の種類など、めちゃくちゃに入力して、審査が通らないようにした。自動と謳っていたのに、社員に「お帰り下さい」と肉声で言われた。ちょっとホッとした。

 その当時やっていたバイトで稼いだお金からいくら貸したかわからない。

 あたりまえだが、家には寄りつかないようになった。

 だから、バイト代は貴重なお金なのである。

 

 今は結婚している。ほぼ実家とは縁を切ったからだ。

 学生時代は結婚はできないと思っていた。一つはこの家の状態、もう一つは自分の病気のせいで。だから、けっこう妻との出会いは奇跡的である。ただ、結婚生活を成立させるために実家とは疎遠にするしかなかった。彼らを抱えるということは、中小企業を経営するのと同じだ。しかも経営センスゼロの社長が経営する企業だ。そんなことできっこない。

 それでもたまに電話がかかってきた。もちろん、すべて借金の依頼だ。すべて断った。情をかけたら終わりだと分かっていたからだ。彼らは必ず、情に訴えかけるような物言いをした。それが異常に鬱陶しかった。

 三〇に入った頃か、両親は離婚した。実家は物理的に存在していないが、実家を整理すること、離婚すること、祖父が他界したこと、すべて終わってから聞いた。あとで聞いて、私はどうすればよかったのだろうか。説教したら、本当に彼らは治っただろうか。

 

 父の日は嫌いだ。

 

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