軽い熱中症になってしまったまさりんです。
みなさんもお気を付けて。
犬神家の一族を見てたら。
70年代の「犬上家の一族」をテレビでやっていた。手枕でそれを見ていた。もう何度見たのだろう。クライマックスのシーン。あおい輝彦演じる犬神佐清が、高峰三枝子扮する母犬神松子のもとへやってくるシーンだった。犯人をかばっているために佐清の手には手錠が掛けられている。佐清の姿は二〇〇六年のリメイク版に比べれば、第二次世界大戦後の帰還兵然としているなあ、と感じた。服装もよりほこりっぽい感じがする。
市川昆は一九一五年(大正四年)生まれ。この映画の時点で若いわけではない。が、リメイク二〇〇六年に比べれば若く、そんな活力が垣間見られた。映像がかっこいい。途中途中、サブリミナル映像のように挿入される映像がかっこいい。
石坂浩二も若い。リバイバルの三姉妹は富司純子、松坂慶子、萬田久子だった。70年代版は、高峰三枝子、三条美紀、草笛光子である。この三人は個人的には甲乙付けがたいと思う。
疑問。どうしてリメイクを?
佐清と松子の会話を聞きながら、どうして市川崑は「犬神家の一族」のリメイクを最後に作ったのだろうということを考えていた。市川崑は二〇〇八年に亡くなっている。正確に書くと、最後は「ユメ十夜」という幾人かの監督と作ったオムニバス映画に参加している。自分の意思で作ったのは犬神家が最後だろう。
あおい輝彦を見ていたら、この作品に隠された意図が分かった。もしかすると、「当たり前だろ」という話かもしれないが、少々おつきあいいただきたい。
犬神家の一族の裏にある設定。
このお話は短く書いてしまえば、一代で財を成した犬神佐兵衛という男の遺言に振り回された遺族の相剋の物語である。狂っているのは犬神佐兵衛だけではない。その血を継いだもの全員がどこか狂っている。母親三姉妹もそうだ。よく考えると、金とその家独特の因習によって狂わされているのである。
私はこの構図がそのまま戦争を表しているのだと思った。狂った大人によって、若者である息子が犠牲になっていくというのは、そのまま戦争当時の日本に当てはまる。財閥は欲に目がくらみ、軍人も出世欲に目がくらんだ。そして押しとどめられないような空気に押されて、国全体が戦争に突入していく。財閥や政府を牛耳っている大人たちは決して戦場へは行かず、結果死ぬのも飢えるのも若者である。
そう考えると、血を継いでいるのは、姉妹でなければならなかった。逆に息子三人兄弟だと、自分たちが骨肉の争いを演じることになる。それでは、「狂った大人に翻弄される若者」という構図が崩れてしまう。佐兵衛翁の子どもは結構いい年齢なのである。
また己の欲が災いしたのであるが、息子を殺された母親は発狂しそうになっていた。戦争で息子を失った母親たちもそうであったのだろう。表面上はお国のために死んだのであるから、平静を装っていたが、裏では発狂しそうな空気を出していた。
若者ではなくなってしまう。結局佐兵衛翁は珠世に相続させたかったのである。戦前は家督相続で、嫡子が一人で相続を独り占めする制度だったらしい。均等割である今の民法は実はこの映画の舞台である、昭和二二年の翌年、昭和二三年に施行される。だから、ギリギリ旧民法の規定で、相続が行われなければならなかった。
あれだけの骨肉の争いにはそれだけの理由があった。
この構図を、七六年版の作中、宿屋のオヤジ役で出演していた横溝正史は考えたのだが、一回こういう人に会って、どういう風に考えた話なのか聞いてみたいものである。創作ノートとかないのかな。
市川崑の意図。
きっと、普通の人々にとって戦争は狂った人たちに振り回されたような感じがしたのだろう。市川崑はもう一度、そのメッセージを二〇〇六年に発したのだ。〇〇年代に入ってから、改憲に賛成する向きが出てきたから。もっとも、現実的に改憲勢力が国会議員の三分の二を占めた今、世論調査ではギリギリ改憲を望まない人の数が上回っているらしい。
軍隊を持つリスク。
トルコでクーデターが発生した。
軍が国境の橋を占拠し、国会に対して攻撃を加えた。
まだクーデターの首謀者たちのコメントも出ていないので正確な意図はわからない。が、なかなか複雑な国内状況を反映しているのかもしれない、という予測は出ていた。
軍隊を持つということはこういうリスクも勘案しなければならないのかもしれない。五・一五事件や二・二六事件だって起こっているしね。
それにしても、外国の人から見たら、日本人は我慢強く見えるというけど、意味が分かったよ。同じような状況を日本人は耐えているのだから。