池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

今の心境にあわせてブログ名を変更しました。どうぞよろしく。肩の力をさらに抜いてやります。

「シン・ゴジラ」泣いた。

 

S.H.モンスターアーツ シン・ゴジラ ゴジラ (2016) 約180mm PVC製 塗装済み可動フィギュア

 まさりんです。

 今日はいきなり本題に入る。

シン・ゴジラ」を見るまでの経緯とおことわり

 やっと「シン・ゴジラ」を身に行った。(※思い切り内容に触れる。先入観なしにこれから鑑賞予定の方は、見てから読んでほしい。また思ったことを思ったまま書いたので、不愉快に思う方もいるかもしれない。先に謝っておく

 この泡沫ブログでも映画の感想を書いているわけで、「シン・ゴジラ」は話題作なわけで。それに「アオイホノオ」のドラマを見ているので、見に行かなければならないような使命感はあった。あるにはあったのだが、そのまま逡巡していた。正直に書く。その理由はゴジラだったからだ。

 だって、所詮ゴジラだぜ。

 という気分がどこかにあったのだ。しかし、もともと庵野秀明という人には興味があった。それに映像はさぞすごいだろう。さてどうするか。逡巡しながら八月も末になってしまった。

 ところが、カミさんが見に行くと言い出した。この流れに乗らないと見に行かないだろうと思って決断した。大切なのは決断だ。時間が合わず、レイトショーだった。終わりは一〇時半だ。

見る前の知識 。あと「尾頭さん」への誤解。

 さて、どう感想をまとめていくか。書きながら考えている。いつものようなあらすじは書かない。書かないが予想はつくだろう。事前にある程度情報は入っていた。ブログを書いている人の感想などがチラチラ入ってくるし、ニュース記事でも内容を読まなくても、タイトルだけで見当がついてしまうからだ。

「リアルな会議シーンが売り」、「自衛隊が活躍する」、「尾頭さんに萌える」など、さまざまなものがあった。逆に「ドラマパートが物足りない」という意見もあった。結論から書いてしまえば、「尾頭」を「おがしら」と読むとは思わなかった。普通「びとう」だろ。

  未だネット上でも議論は続いている。

 

togetter.com

 

 

toyokeizai.net

 

 

ゴジラパート

 この映画はこれがすべてだ。

 初上陸から一貫して、ゴジラが素晴らしかった。あまり細かく書かないが。ゴジラパートだけのブルーレイがあったら確実に食い付く。それに対抗していく自衛隊の面々と兵器もすごかった。

 元都知事の猪瀬直樹東浩紀津田大介との鼎談(ラストに載せといた)で、「あの目はナマハゲだ」とか言っていたが、違う違う。あの目は昔の怪獣の目だ。私はウルトラマンが好きだった。

 はっきりいって、このゴジラパートだけで二時間作り、あとのノイズは要らないとすら言える。上陸して、大地を踏みしめると、亙屋根の瓦がどんと浮く。浮いた後、ず、ず、ず、と屋根を滑り落ちる。鳥肌がぞっと立つ。後でも書くが、非常にゴジラが美しいのである。

 

ドラマパート・前半

 序盤のドラマパートは確かにリアリティがあった。といっても、実際の省庁の会議など見たことがないので、そうだろうとしか言えないけれども。特に決定が後手後手に回るところ、後手後手に回っていても、階層を維持しようとするところは笑ってしまった。

 尾頭が登場し、未確認生物について発言した後、首相がその上司である環境大臣に聞き直すところは笑ってしまった。分かるわけがないのである。年寄りが慣習に逸脱した行動を取るのは大変なのだ。

 

ドラマパート・後半

 ところが、矢口がトップになった対策本部が立ち上がって、「あーあ」と思った。首相を殺さず、そのまま行けば良いのに。各省庁などの跳ねっ返りを集めた対策本部。「あーあ、ウルトラマンだ」。事前の情報から推察するに、ウルトラマンを出すしかゴジラを止められないだろうな、と思っていたら、こういう形でウルトラマンが出てきてしまった。

 事前情報から総合して、どこかで「週刊少年ジャンプ」が始まるのだろう、とも予測していた。やはり、そうだった。「週刊少年ジャンプ」とは、「友情・努力・勝利」である。特に友情が強調して描かれるのであるが、条件付きだ。平等で公平な友情ではなく、主人公が軸になって物語が回転し、主人公が一歩抜きんでた友情だ。皆で強敵を倒すようでも、結局主人公の活躍だけで倒すのである。最後は全部主人公が持っていくのである。友であるはずの仲間が死のうがなにしようが、それは人身御供であり、主人公を立てるための死である。

 結局、主人公矢口蘭堂を中心に話が展開され、実際に戦った自衛隊員などに犠牲者が出る。もっとも大統領自身が戦闘機に乗り込んで戦うよりはマシなのであるが。みんな仲良しで、アメリカまでが矢口主導の作戦に参加しゴジラを活動停止させる。

 首相代理は本当に里見になっただろうか。この国の出世するような老人である。自分では危ない橋は渡らないだろう。同時に周囲に恨まれたくはないとも考える。だから、同じ老人ではなく、(つぶすためにも)優秀な若手に押しつけるような気がする。

 ドラマパートに関しては、対策本部が立った段階で醒めた。主人公という存在をつぶせれば面白かった。ただ、仕方がない。

いや面白い映画だよ。

 もう一度書いておくが、こう書いてもゴジラの価値は下がらない。なぜなら、かの映画は(大人は)ゴジラを見に行く映画だからだ。それ以外はすべてノイズだ、と個人的には思っている。ドラマパートを主としてみるのならばテレビで十分だ。たぶん評価は低いだろうが。声を出すことが可能な上映会なら、「踊る大捜査線」の警察官僚が登場するシーンの音楽が流れた瞬間、盛大に舌打ちをしただろう。そういうの要らない。

 

意識の切り替え。 

 この段階で自分のなかで「これは子ども向け映画だ」と意識を切り替えた。子ども(一〇歳前後)はまだ現実を知らなくてもいい。困難には常に独りで立ち向かうのである。困難に直面するとき、親友など雲散霧消する。協調関係も結ぶのだが、そこには面倒な計算があって、もっと複雑な思惑が絡む。だいたい、逃げるヤツがいない。画面に映っていない人間ではない。写っている人間のなかで逃げる人間がいない。

 だが、そんなことを子どもに教えるというのも気が引ける。子どもは「友情が大事」でいいのである。そうして友だちと一緒に、集団行動を学ぶのである。自分だけが主人公で他人は犠牲にしてもいい、という場ではなく。どうしても犠牲になる友をどう捉えるのか。そういうことはジャンプでなくても勝手に学んで・・・・・・、いかないのかもしれない。最近の子ども、特に都市郊外の子どもは外でみんなで遊ばないらしい。でも、現実はもっと大人になってからでいい。

  それに理解している。あれくらいの分量とシンプルさにしないと、少なくともあと一時間は必要だろう。

 なんてことを考えながら、映画を見た。あまり面白くない映画の見方だ。どうしてこういうことを考えられたかと言えば、ドラマパートが長いからだ。

 

 ゴジラパートの描写がどこか東日本大震災を思い出させたから、ドラマパートの後半に関して不満を持ってしまったのかもしれない。

 「この国はまだまだいける」みたいなフレーズが何度か言っていて、「どこがだよ。あのとき(震災)なにも決断できなかったじゃないか。首相だってまるで足手まといだったじゃないか。細野だって、出せる情報を出していて、戦っている風ではあったけれども、結論としてなにもできなかったじゃないか。東電の社長も逃げ出したし。メルトダウンを認めたのはつい最近だぞ。保身に汲々としてる姿しか覚えていない。水素爆発だって、六時間前の映像を我々はテレビで見せられて。みんな『どうする。逃げるか』と迷っただろうに。アメリカ人などはさっさと国外退去命令が出て。ネットは情報が錯綜しまくってなにが真実か分かりゃしない。どうしてあのときのことを忘れてしまえるんだ。あのときとなにが変わったというのだ」と思った。本当に。

 ただ、冷静に考えた。子どもに向けた映画であれば、あの地震の当時、今の子どもは年端のいかない年齢であり、これでいいのかと。震災は風化したのだ。この映画が評価されているということはそういうことだ。

 

ゴジラの美しさ。

 こう書いていくと、ものすごく映画を見たときに不満があったのだろうと思うかもしれない。もう一度書くと、それを凌駕するゴジラのすさまじさがあった。美しかった。そんなこんながあったためか。最後ゴジラを追い詰める作戦(『ヤシオリ作戦』ヤシオリは八岐大蛇)をしているときも、矢口蘭堂始め、政治家や官僚などに何一つ思い入れができず、ゴジラに同情してしまった。はっきりいおう。ゴジラを応援していた。もっとやれば良いと思った。初めてゴジラが光線を吐いたときには、美しさにちょっと泣いた。隣のカミさんに気づかれないように目を拭った。本当に。

 

映画を見た後。どうしてゴジラは・・・・・・。

 映画が終わり、映画館を後にしようと歩んでいると、後ろに三十代半ばの男のサラリーマンがいた。カミさんと一緒に「結局さ、途中からジャンプになっちゃうんだよな」という話をしていると、後ろでにやりと笑っているのが、ショーウインドウに写っていた。

 

 帰ってから、初めて光線を吐いたシーンが何度も頭に浮かんで、至福の時を味わった。

 

 数時間睡眠を取った。目覚めても、やはりそのシーンが頭に浮かんだ。

 そしてキッチンに行って台所からペットボトル入りのお茶を取り出し、タンブラーに入れそれを飲み干したときに思った。

 「それにしても、ゴジラってどうして東京に来たんだ・・・・・・」

 劇中繰り返された、「ただ歩いているだけですよ」という言葉が頭を駆け巡った。

 後ろを歩いていた男のにやつきを思い出した。

 ゴジラがどうしてやってきたのか、それは劇中、次々と可能性が否定されていった。補食のためではない。ゴジラはエサを必要としていない。「ただ歩いているだけですよ」ではどこに向かっていたのか。途中で止めてしまったから分からない。「ただ歩いているだけですよ」ではどうして攻撃したのか。「ただ歩いているだけですよ」なぜゴジラは美しく光線を出したのか。「ただ歩いているだけですよ」

 あのまま、歩くままにさせていたらどうなったのか。

 北海道の無人の原野を歩いていたら、やはり即攻撃したのか。

 米軍が余計な攻撃をしなかったら、光線を出さなかったのではないか。

 

 またアメリカに足を引っ張られるのか。

 いや、表現が寄っている。

 戦後、アメリカさんの教導よろしく、おかげさまで平和な七〇年間を過ごしてきたのですが、今回はアメリカさんの決断はよろしくなかったようです。

 

 ゴジラの目的がわからない以上、人間的な善悪の鋳型にはめれば、悪いのは人間にならないか。なんせゴジラは「ただ歩いていただけ」なのだから。

 なんてことだ! 全部ひっくり返る。

 ド深夜にもかかわらず、それに気づき、興奮してしまって眠れなくなった。

 朝方またもや、「いや、ゴジラってもともとそういう話ではないか」と思い直した。ゴジラは先進国の核実験の廃棄物を食べて変態した、不幸な生物という設定だ。それも子どもに向けたメッセージだった。

 結局庵野秀明は、裏にあるゴジラのメッセージというのをそのまま持ってきて、作品を作ったのだった。なるほど。

 結局すごく面白かった。これだけ考えてしまうしね。

 要するに、この映画の制作陣は子どもにも見せたい映画を作った。だから、自分たちが子どもの頃に見て強烈に印象に残ったメッセージを流用したのだろう。

 いや、でも、子どもに実際に見せてみないとわからないけれども、あのゴジラ見たら、我々が初めて劇場でスターウォーズを見てはまったような衝撃が走るのではないかなぁ。それくらいすごかったよ。

※ 同じことを考えている御仁がいて面白かった。

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 ゴジラもっと暴れればいいのに。

 

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