まさりんです。
短編小説の集いに参加します。
やばい、あと数分しかない。主催者様よろしくお願いします。今回は煮詰めが甘いです。すいません。
「生き様、死に様」
法華経寺の入り口にある、木造の大きな仁王門の前に立つ。彼は何度ここにたっているが、思わず視線を上げてしまう。その視線の先には扁額が掛けてある。「正中山」と金色の字で書かれている。黒い木の額の縁どりなどの装飾も金色だ。視線を元に戻し、彼は歩み始める。「下乗」と書かれている杭の右脇を過ぎる。彼は毎度、「乗るのか降りるのかわからない」と思う。仁王門の右手には立正安国論を辻説法で説く、巨大な日蓮像が台座の上に立ち、参拝者を見下ろしている。日蓮像の脇には、黒い板の掲示板があり、白い字で年中行事が書かれている。仁王門の左正面には「南無妙法蓮華経」と金の字で書かれた大きな石柱が立つ。
彼は足下の石畳を確認するように見て、仁王門をくぐろうとする。門の通用口に切り取られた参道の景色が見える。暗闇に鈍く光る白い石畳はまっすぐ伸びる。石畳の左右には桜並木が続く。秋の入り口である今は桜の葉の緑が濃い。桜の間に灯籠型の電灯カバーを乗せた電柱が並んでいる。が、光量が不足していて参道全体が薄暗い。
「もう夏も終わったな」
右脇をゆく連れが語りかける。
「だいぶ涼しくなった」連れが歩きながら周囲を見る。参道の左右の桜並木に沿って、中山法華経寺の末寺が並ぶ。彼と連れの左手には墓地を抱えた寺、右手には整備された日本庭園が美しい寺がある。ただ今は夜なので、あまり見えない。ただ、闇に浮かぶ墓石の影と手前にある丸くカットされた松の木の葉が見えるだけだ。仁王門をくぐると、とたんに秋の虫の声が大きくなった。鈴虫や蟋蟀が多く鳴いている。彼は耳を澄ませて、ほかの虫の声を探るが、クツワムシなどの声は聞こえない。
「そうですね。鈴虫と蟋蟀の鳴く声が聞こえますね」
彼と連れが石畳を進む。墓石の寺の隣は荒行をやっている寺が並ぶ。右手にはカフェバーの木の看板とメニューの黒板が地べたに置かれている。ともに膝高だ。
彼と連れは虫の声に誘われるように、無言で進む。彼と連れは毎日こうして寺の中を歩いている。だから、もう話すことが尽きたのだろうか。別段仲が冷えているわけでもないのだが、仲が良いともいえない。彼にとって連れは依頼人筋にあたる。
ついこの前の夏には連れも暑さに懸命にあえぎながら歩いていたが、秋口になって力が抜けた。その脱力は逆に、端から見ればくたびれて見える。一方の彼は、連れに歩調を合わせながらも気も漫ろに見えた。門を見上げ、金字を見ても、石畳を見ても、周囲の景色を見ても、どこか心ここにあらずであった。その代わりに彼の脳中を占めているのは、数学的な思念だった。もしもこの歩みが目的地に一直線に進むような性質のものならば、余計な思考もなかったろう。そぞろ歩きのときにはこうした雑念に近いものが浮かびまくる。彼の人生にとって、このような時間は大切であり、そしてこの時間を愛した。泡のように浮かんだ雑念は別の思念と思念を結ぶ膠のようなものになることがあった。その感覚が、とても気持ちが良いのである。もっとも、帰宅後再検討すると笑ってしまうような勘違いだったりするのだが。
やがて、荒行の寺に続く場所から、子どもたちの叫ぶ声がした。階段を上がるとそこには剣道場があるらしい。
剣道場に続いて、墓地が現れる。墓苑に続く階段が途中三カ所ある。その一つの階には猫が座っていて、毛繕いをしている。階段の下には立て看板があり、捨て猫を止めるように書かれている。墓苑は広く、虫の声が一層高くなる。
「いつもお連れして思うのですが、こうして歩くのはおいやですか」
彼は自分の頭が到頭来るところまで来てしまったのだと自覚している。今、連れに話しかけ、連れは答えているのだが、あり得ないことなのである。連れは犬だった。そして彼は散歩を代行する業者だ。孤独になってから数年、世間体もあってこういう仕事を始めた。本当は働かなくても食べていけた。
「そりゃそうさ。おまえと同じだよ。すべての犬が散歩が好きなはずだという人間の要求に我々は叶えないと、生きる術を失うのだから」
しかし、彼には連れとの会話が成立しているのだと信じていた。自分がおかしいのだと思うたびに、一人で過ごしてきた時間があまりにも長かったことを悔いてしまう。
「人間に関わるとろくなことがない。お前らはすぐ生き方に正解を作りたがる。それですぐに他者にそれを押しつける。まことにうっとうしい。そのうっとうしさを、『世間』というのであろ」
彼は答えない。その世間というのがよくわからない。
見ると墓苑へと続く階段の脇にある傾斜地に彼岸花が燃えるような朱色の大輪の花を咲かせていた。夜なのであるが、それは闇に存在を誇示していた。
参道を挟んで、墓苑の反対側には参拝者用の茶店が並んでいた。夜になっていて、今はもう閉まっていた。そのさき、参道には小さな橋が架けられていた。彼と連れは橋を渡った。橋の向こうにも石畳が続き、すぐに石畳は交差点になった。右に曲がると出入り口に向かう。正面は祖師堂と呼ばれる本堂へと続く。橋を渡り、急に開けるこの場所は気持ちが良い。
彼と連れは、石畳の交差点を左に折れて進んだ。正面には妙見堂と呼ばれる、堂宇がある。階を登って中に入るのであるが、床の下に木材が渡してある。その木材の上に猫が香箱座りで乗っていて、ずっと甲高く鳴いていた。まるで誰かを呼んでいるようだった。妙見堂の奥には参道脇にあった墓苑が広がっている。闇に沈んで細部は分別がつかないが、墓石の黒い輪郭だけが見える。無数の墓の影が不気味に浮かんでいる。墓苑の入り口には背の高い樹木が数本立っている。樹木は高いところにある枝と葉を残して剪定されていた。葉や枝が豊かでなく、墓地の手前にすっと立つその姿ははかない感じがした。彼は墓石の群れとその樹木を眺めた。その樹木が彼岸との境を示しているように感じた。だが、彼には樹木の名前がわからない。菩提樹かなと思ったが、どうも違う気がする。
石畳を進むと右手に一段高い丘があり、その上に刹堂が立っている。左手に進んでいくと、暗闇に水気を感じる。竜王池という池があるはずだ。池の畔に一角の祠のような建物があった。彼と連れは橋を渡って、祠へと進む。橋の下は池から水が蕩々と流れ込んでいて、轟音を立てていた。橋の両脇には「南無八大龍王」と赤い布に白い字で書かれた幟が数本立っていた。祠の壁には漆喰が塗られている。左右の壁には釣り鐘の形をした窓があり、窓の下には木の椅子があった。彼と連れなかに入ろうとすると、先客の猫が彼と連れを威嚇した。気にせずに入る。すぐに猫は立ち去った。祠の向こうには、八大龍王を祀る社がある。社の手前には多くの蝋燭を立てる大きな燭台があった。火は消えている。
彼はこういう場所が好きだった。特に夜になれば、ここに人はほとんどやってこなかった。水の轟音は周囲の雑音をかき消すのだが、きちんと水辺の虫は聞こえていた。
「やれやれ、一休みするか」
彼は池の方の窓の椅子に腰を下ろした。連れはコンクリートの床に腰を下ろした。
「誰も来ませんよ。椅子に座ればいいじゃないですか」
彼は口ひげを触る。だいぶ白髪が増えた。
「そうもいかんだろ」
連れは前足を枕にして、顎を乗せた。その鼻先に一匹の蟋蟀がやってきた。
「おい、何してんの」
蟋蟀は短く高い鳴き声で鳴いていた。
「散歩の休憩中ですよ」
蟋蟀は連れに聞いているのだが、連れは目を閉じて無視を決め込んでいる。
「暇なんだよね」
「だって、あなたたちは恋をする時期でしょう。そんなことも言ってられないのではないですか」
だから秋の虫は鳴くのだ。
「オレ、もてないんだよね」
羽を震わせるのであるが、心なしか寂しそうだ。
「あんたはモテるのかい」
「そんなわけないでしょう」
寝ているはずの連れが鼻で笑った。
「妻にはもうとっくに逃げられましたよ」
彼は妻と一緒に暮らしているときも孤独であった。彼は数学の難問を説く挑戦をしていた。彼の実家はこのあたりの土地持ちの百姓であった。だから、食料と住宅には不自由しない。それ以外の部分は、彼の志を理解した妻が、公務員として働いて支えていた。彼と妻の間には子どもがいなかった。彼はもともと世間体などを考えて生きるような人間ではなかった。だからこそ、数学の難問を解こうなどという酔狂なことをやるようになったのである。
数学は他者とのコミュニケーションを閉じて、孤独に難問を解いていくというイメージがある彼はそういう作業を大学院卒業後、長年やってきた。妻もそれを支持した。彼は優しく、家事も手伝った。二人は幸福な・・・・・・、はずだった。しかし、それも終わりの時がやってきた。
「数学って、年を取っても新しいことができるって分野じゃないんですよ。それに何よりも、私自身のなかで何か、限界を感じてしまったのです。それを告げるのに、とても迷いました。けれどもいつまでもこうしてはいられないと、妻に言いました。もう少し秋が深かったかな。銀杏の葉も色づいてきていたと思います。意を決して言いました。『もう無理かもしれない』と。まさか予告するわけにはいかず、不意打ちになってしまいました。あのときの妻の顔は忘れられません。目を見開いてね、驚愕の極地という顔でした」
いつの間にか顔を起こした連れと蟋蟀は彼の顔を見て話を聞いていた。蟋蟀は話を聞いているときも羽を鳴らしていた。
「そして次の日には我が家からいなくなっていました。理由はわかりません。情けない私に愛想を尽かしたか。それとも他に男がいたのか。そして何日かして、一週間くらいあとでしょうか。離婚届が届きました。何も言わずに私は判を押しました。理由はわからないのですが、彼女はこの世の中で一番私を理解している人です。その人が下した決断です。間違いはないのです」
「信じておったのだな」
連れは低い声で言った。彼は肩越しにもたれている壁の窓から池を見た。悲しいのである。池の水は漆黒で水面は静かに見えた。その水面に、蓮の葉のシルエットだけが浮いている。彼はそんな景色を見て、その悲しさを紛らそうとしていた。
「人間は怖いなあ。蟋蟀も一緒なのかな。あなたは一生懸命やっただけでしょ。それで最後に裏切られちゃうんだ。生き方が間違っているってことになっちゃうんでしょ。見捨てられちゃうんでしょ。怖いなあ・・・・・・ちょっと待って」
蟋蟀が体の向きを変えた。彼が座っているのが池に面した窓の椅子であったが、その反対側の窓に別の蟋蟀が一匹止まった。それを見た彼と話していた蟋蟀の鳴き方が長くなった。雌が近くに来た証拠だ。
「あれは幼なじみだ。幼なじみのミヨちゃんだ。じゃあ、オレ行くから」
と言って、蟋蟀は雌蟋蟀のミヨちゃんに向かって飛んでいった。
「あれだけ恐れておったのにな。これもおまえら人間のいうところの業じゃな。仕方がない所行じゃ」
蟋蟀は見られていることも気にせずに窓に登って交尾を始めた。
「本当にうらやましい」
「あれでいいんじゃよ。本当は。あるがままに生きて、死ねば、その辺で燃やされて灰になって終わり。それでいいんじゃ」
「そうですね。最近の人間は死に方まで規定しようって動きになってきていて」
「死に方? 何を言っておるんじゃ。死は死だろうに。そこに意味なんてないじゃろ」
連れは顎を前足に乗せた。どうも寝ているように見える。
「違うんですよ。万人が納得するような死に方をしないといけない空気になってきているんです。自堕落に生きて病気になると、誹られるようになってきているんです」
「また人間は生きづらくする。他者は否定しようとしても存在しているのだから、否定しようがないのだよ。それがどうしてわからないのか。それに死んだ後に見栄を張っても仕方がないじゃないか。墓なんてみっともないものの極みじゃよ」
「今はペットだって墓を建てますよ」
「嘆かわしい」
橋の下では轟音を立てて流れている。池の水面は静謐を保っている。
死ぬときくらい自由にさせてほしいなあ、と連れが言っているようだったが、目の前の連れの姿とシンクロしない。きっと彼は一人で頭の中でしゃべっているのである。それはそれでよい。ただ、人々と関係を築かなければいけないという人間にとって、自堕落になってしまうのか否か。それだけが気になった。(4978文字)