今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

第二十八回 短編小説の集い「さよならの決意」

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 まさりんです。

 最終回! 

 とはいっても、はてなブログでの。

 ということで、例によって、主催者様、よろしくおとりはからいください。

 とりあえずは、主催者様お疲れ様でした。

novelcluster.hatenablog.jp

「さよならの決意」

隅田川の両岸、土手の上には満開の桜並木が続いている。

 ボクとシホは桜並木の下を歩いていた。並木の足下には菜の花が咲いていた。薄桃色と黄色、そして青空の青、それぞれの色のコントラストが美しかった。満々たる水をたたえ、隅田川は僕たちの進行方向とは逆向きに流れてゆく。川面にはユリカモメが浮かんでいた。海から吹いてくる風は潮の香りを微かに運んでくる。桜の花のぶらさがった枝は海風にたわんでゆっくりと揺れている。

 菜の花の前にはロープが張ってあって、「菜の花を引き抜かないでください」と書かれたプレートが下がっていた。

 「私も着てくればよかった」

 と少しシホは不機嫌に言った。僕たちの脇を晴れやかな和装の女性数人が連れ立って歩いてゆく。いつもシホは不機嫌な顔をしているヒトなので、さして驚きもしないが。

 「どっかの大学の卒業式なんじゃないの」

と、ヒトの良いボクは応える。放っておけばいいのに。

 「バカじゃないの、ふつう卒業式は袴でしょ」

と「ボクのバカさに驚いた」というように、丸く見開いた目でボクの顔を見た。

 どこかに「勝手に店を出すのを取り締まる」というような文言を見かけたはずだが、そこかしこに白いテントが張られ、酒、煮込み、焼きそばなどが売られていた。

 よく観察してみると、それは町内会ごとに出しているようだった。売り場よりも奥の宴会スペースの方が広いようだった。

 結局、こうしてスペースを確保しないと、花見客に占拠され、地元町内会の人が花見できない、ということだろう。

 シホは黙々と歩きつづけ、ボクは一歩後ろをゆく。

 テントから、酒や食べ物の匂いとともに、音楽が聞こえる。あるテントからは童謡「花」が流れ、別のテントからは吉幾三の「雪國」が流れていた。

 これで土手の護岸工事がなされていなければ、さらに良い景観なのに、と思った。様々に着飾った人々が桜を眺めながら、菜の花やつくしの生える土の土手を歩く。脇を隅田川が蕩々と流れる。そんなうららかな様を想像した。

 

 やがて 二キロの桜並木は途切れる。

 隅田川を背にして立つと、正面には首都高速向島線の巨大な高架が見える。左手にはその入り口の緑の電光掲示板と料金場が見える。高架の下には一般道が走っている。入り口付近で分岐していて、一車線が入口へ続き、もう二車線が直角に曲って隅田川から離れていく。

 分岐に入る軽ワゴンを一台やりすごし、横断歩道を渡る。離れてゆく一般道の脇には、「言問団子」の店があった。一般道を横断するのは困難だったので、一般道に沿って歩いて、近くにある丁字路の信号をわたって、折り返した。

 シホは遠回りにブウブウ文句を垂れた。

 風が吹き抜ける気分のいい場所を歩いてきたので、それだけで気分が高揚していた。 

目的の場所に着いた。

 「長命寺桜餅」

 江戸における桜餅の元祖だ。

 関西における桜餅は道明寺粉を使用する。おはぎのような食感だ。江戸では小麦粉のほかにさまざまなものを混ぜ、水で伸ばし、焼いて皮を作る。その皮で漉し餡を包み、桜の葉でさらに包む。

 小さな引き戸を開け中に入る。数坪の狭い店内に、親子連れの先客がいた。桜餅を買って、隅田川で花見をしながら食べようというのだろう。

 奥から白い割烹着のおばさんが 三人ぞろぞろ出てくる。いらっしゃいませ、と言うと店内が華やぐ。

 「あのう、はじめまして・・・・・・」

 シホが先ほどの不機嫌さからは打って変わって、鼻にかかったかわいらしい声で話しはじめる。ボクはその様子に鼻白んでしまい、そっぽを向くように振り返った。引き戸の向こうには首都高の高架に切り取られた青空と、潮風に重たげにゆれる桜の花が見えた。

 シホは上野にあるハードロックカフェ「バック・イン・ブラック」の店員だ。その店長が何を思ったのか、春季限定で「長命寺桜餅」を出すことを画策した。その交渉にシホを遣わしたのである。

 シホのカレシであるケンジの家でそんな話を聞かされた。

 一緒にデートをしたいシホが散々おねだりしていたのが飛び火して、ボクが行くことになってしまった。ケンジは経営している私塾の準備やらなにやらで忙しかったのだ。

 

  おばさんはパートさんらしく、桜餅をシホの店で出したい、という依頼には上に聞いてみなければわからない、と返事した。

  せっかく来たのだから、桜餅を一つずつ食べようということになった。

  店の半分は、食べるためのスペースになっていた。スペースには緋毛氈の敷かれた長椅子があって、二人で並んで座って食べた。桜餅には煎茶が付いていた。

  桜餅を包む肉厚な葉を一枚ずつ剥がす。桜の葉は塩漬けになっていて、剥がすたびに桜の葉の香りが鼻腔をくすぐる。

  「いい香り」

  シホも桜の葉をめくりながら言った。

  餅を三枚の葉で包むというのがこの店のルールだ。

  葉から出て来た白い皮の餅を、そっと鼻に近づける。桜の葉の香りと中の餡の香りとが鼻に入ってくる。そっと脇を見ると、シホも目を閉じて、香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。その日のシホは真っ赤な口紅をしていた。まるで口づけをしているようだった。顎が微かに上がり、胸が膨らんでいた。ウェーブのかかったポニーの尻尾が少し揺れる。

  様子をうかがっているのを隠すように、餅を口にふくむ。控えめにもちもちした皮の食感と、ねっとりとした餡の甘さが口の中に拡がる。

  同じように、餅を頬張ったシホが、「美味しい」と感嘆の声をあげた。

  「ありがとうございます」

  とお礼を述べながら、白髪でおかっぱ頭の店員さんが、煎茶のおかわりを注ぎにやってきた。

  シホと店員さんがやりとりをしていたのだが、まるで耳に入ってこなかった。

  桜の葉の香りを嗅ごうとして嗅覚が鋭敏になったのか、シホの身体の匂いに気づいた。隅田川沿いを歩いていたときには風のせいで分からなかった。バラの香りのボディクリームや髪の匂いは風に乗って拡がっていたので気づいていた。その奥に、なんとも形容しがたい生き物の匂いがした。

 

  隅田川沿いを歩いて帰る。

  日が傾き始めていた。

  「長命寺桜餅」の店は、桜並木の端の方にあった。対岸にはスポーツセンターが建っていた。ユリカモメが浮く、隅田川の波頭は逆立ってきていた。陽の高いころより、色は暗く、冷たそうだった。

  桜並木の間には酔客がそこかしこにいる。

  楽しそうな様子を見て、「いいなあ」とシホが羨ましそうに言うが。ボクは「そうかな」と言いそうになって止した。

  「ロックカフェのお花見はもう少し先の予定だけど、今年はムリそう・・・・・・」とさみしそうに、独り言のように言った。理由は言わなかった。聞きたかったが、ボクも強いて聞かなかった。

  頭の上には首都高の高架がある。轟々と轟音をあげて、車はひっきりなしに通り過ぎて行く。

  「あれ、なんの声」

  不意にシホが言う。

  いよいよ盛りが過ぎたのか、海風に舞って、ボクの顔に向かって、舞い飛んで来た桜の花を払いながら、ボクは耳をそばだてる。

  車の通る轟音の切れ間に、何かを語る声がした。落語のようだった。

 その声は張りがあり、かなりの喧噪なのだが、そのなかを負けじと貫く強さがあった。二人して見回して声の主を探すのだが、どこにいるのかわからない。シホがかかとの高いヒールを鳴らして、川面に近づいた。ボクも後から続く。コンクリ塀の際まで歩く。「こっちだ」と言いつつ、土手から下へと続く階段に向かった。高いヒールのせいでおぼつかない足取りで、シホは階段を降りてゆく。ボクも続いた。

 階段の下は川面の水際すれすれまで近づけるように、整備されている。階の上が土手なら、階の下は河川敷とでもいおうか。河川敷には隅田テラスという名前が付けられていた。

 階段を降りて、テラスに出て、土手のある壁の方を振り返ると、一本だけ桜の樹があった。他の桜と同じように満開に咲き誇り、隅田川の水面と一緒に風に揺られている。どうしてこんなところにぽつねんと立っているのか、とあたりを見回すが、河川敷には他に桜はない。これっきりだ。

 樹の下に小さなゴザを敷き、男が一人座り、根多をくっている。現代人の間尺からすれば小柄の部類だが、雰囲気に華があった。にこりと笑うと品があるとは言えぬが、なんとも愛嬌があった。声はしゃがれていて、甲高い。

 シホは座ってしゃべる男のすぐ前に、抱え膝で座る。桜色のスプリングコートの裾をお尻で押さえていた。ちょうど男の目線とシホの目線が合っているはずだ。男はそんなことはお構いなしにしゃべる。

 ボクは二人から少し離れ、水際の柵に凭れていた。

 根多は「道灌」だと思う。自信はないが。

 「道灌」ははっつあんとご隠居さんのやりとりが中心の話。雨に降られた太田道灌が賤女に簑を借りようとやってくる。賤女は「貸す簑がない」ということを、歌の知識を使って伝える。はっつあんはその逸話を利用して自分も傘を借りに来るご近所を撃退しようと考えるのだが、例によって失敗するという話だ。

 「来やがったな道灌。なんだいケダモノ。ケダモノ? なんだい。ちょいと借り物。わかってるよ、皆まで言うな。万事心得てるんだ、傘だろ、雨具だろ。オレ合羽着てるよ。え、お、このやろ着てやがるよ。手回しの良い道灌だね。なんだよ道灌ってな。これから千住まで行って、返り、車引いてくる。遅くなると暗くなる。提灯貸せ。止せよ、おい。道灌が提灯なんぞ借りてくれるなよ。嘘だろ。嘘じゃないよ。嘘だよぉ。雨具だろ。着てるよ。もう一枚借りろい。なに言ってんだい」

 淀みなく話は進む。最後の落げまで終わって、男は一礼をした。頭を上げてから、

 「どうだいねえさん」

 と男はシホの顔をのぞき込むようにして聞いた。

 「うーん、まあまあね」

 ずいぶんな言い方だね、と言って、男は腕を組んで肩を落としてうなだれた。

 ボクはうまいと感じた。シホはもしかして耳が肥えているのだろうか。

 ――だって、道灌って誰?

 辺りの空気が二、三度下がった気がした。

 こいつはいったいなにを聞いていたのだろうか。

 ――どうして歌を見せると簑を貸さなくてすむの。

 根多の根幹について質問しちゃった。

 あまりのことに「よぉ、にいさん、助けてくれよ」とシホの肩口から顔を覗かせて、ボクに助けを求めた。ボクは水際の柵から身を持ち上げて、二人の所まで歩いて行った。

 ほうっておいてくれ、と言おうとしたボクを遮るようにして、シホが言った。

 「これに出てくる歌あったでしょ。あれ書いてよ」

 「どういうことだい」

 「だって、あれあると止められるんでしょ」

 「まあね」

 男は仕方なしといった感じで、メモ書きを取り出してそこに道灌に出てくる歌を書いて、切り取ってシホに渡した。シホはそれを音読した。

 「ななへ、やへ・・・・・・」

 「正気かい、ねえさん。はっつあんと同じことしてやがるよ。ぼけてるつもりかい」

 とボクを見る。

 「いやマジだと思うよ・・・・・・」

 ボクと男の二人は、困惑した。

 賤女の使った歌は、「七重八重花は咲けども山吹のみの一つなきぞかなしき」である。この歌を読み間違えるのが落ちなのである。

 「なんかバカにしてない」

 バカはバカにされることを異様に嫌う。

 「そりゃあね。今わかったけど、はっつあん以上に理解力のない人間には、根多ってのはわからないもんなんだね。それにしても、今時傘なんて借りに来るかい? コンビニで買った方が早いやね」

 「違うの。私ね、アイドルをやってるの」

 初耳だった。

 「店の女の子たちとグループを組んでね、ベビーメタルの向こうを張ろうということになったのね。でもね、うまくいかなくて」

 「やめたいわけだね」

 「ううん、逆。もう売れないからって、解散が決まってるの。みんなストレスに負けちゃって。自分勝手でさ。男関係もアイドルやる前よりも派手になっちゃって、それを叱ったら揉めちゃってさ。一応私がリーダーだったんだけど。最終的に私が悪人になっちゃって。私がいないところで櫛の歯が抜けるみたいに一人ひとり辞めちゃってさ。この歌見せれば、解散止められるかな」

 「無責任なこと言えないから、はっきり言うけど・・・・・・」

 「無理なのね」

 むむむ、と言いながら男は肩を怒らせた。

 そうよね、と言いながらシホは立ち上がった。

 海からの風が男の頭上の桜の枝を揺らし、桜の花びらを散らした。

 すでに歩き出したシホの少し後ろから、

 「村雨だね、まるで」

 というと、

 「村雨ってなに」

 コイツ、なんにも聞いてないで、人の根多をつまらないとか言ってたのかよ。(四九九四文字)

 

隅田川の両岸、土手の上には満開の桜並木が続いている。

 ボクとシホは桜並木の下を歩いていた。並木の足下には菜の花が咲いていた。薄桃色と黄色、そして青空の青、それぞれの色のコントラストが美しかった。満々たる水をたたえ、隅田川は僕たちの進行方向とは逆向きに流れてゆく。川面にはユリカモメが浮かんでいた。海から吹いてくる風は潮の香りを微かに運んでくる。桜の花のぶらさがった枝は海風にたわんでゆっくりと揺れている。

 菜の花の前にはロープが張ってあって、「菜の花を引き抜かないでください」と書かれたプレートが下がっていた。

 「私も着てくればよかった」

 と少しシホは不機嫌に言った。僕たちの脇を晴れやかな和装の女性数人が連れ立って歩いてゆく。いつもシホは不機嫌な顔をしているヒトなので、さして驚きもしないが。

 「どっかの大学の卒業式なんじゃないの」

と、ヒトの良いボクは応える。放っておけばいいのに。

 「バカじゃないの、ふつう卒業式は袴でしょ」

と「ボクのバカさに驚いた」というように、丸く見開いた目でボクの顔を見た。

 どこかに「勝手に店を出すのを取り締まる」というような文言を見かけたはずだが、そこかしこに白いテントが張られ、酒、煮込み、焼きそばなどが売られていた。

 よく観察してみると、それは町内会ごとに出しているようだった。売り場よりも奥の宴会スペースの方が広いようだった。

 結局、こうしてスペースを確保しないと、花見客に占拠され、地元町内会の人が花見できない、ということだろう。

 シホは黙々と歩きつづけ、ボクは一歩後ろをゆく。

 テントから、酒や食べ物の匂いとともに、音楽が聞こえる。あるテントからは童謡「花」が流れ、別のテントからは吉幾三の「雪國」が流れていた。

 これで土手の護岸工事がなされていなければ、さらに良い景観なのに、と思った。様々に着飾った人々が桜を眺めながら、菜の花やつくしの生える土の土手を歩く。脇を隅田川が蕩々と流れる。そんなうららかな様を想像した。

 

 やがて 二キロの桜並木は途切れる。

 隅田川を背にして立つと、正面には首都高速向島線の巨大な高架が見える。左手にはその入り口の緑の電光掲示板と料金場が見える。高架の下には一般道が走っている。入り口付近で分岐していて、一車線が入口へ続き、もう二車線が直角に曲って隅田川から離れていく。

 分岐に入る軽ワゴンを一台やりすごし、横断歩道を渡る。離れてゆく一般道の脇には、「言問団子」の店があった。一般道を横断するのは困難だったので、一般道に沿って歩いて、近くにある丁字路の信号をわたって、折り返した。

 シホは遠回りにブウブウ文句を垂れた。

 風が吹き抜ける気分のいい場所を歩いてきたので、それだけで気分が高揚していた。 

目的の場所に着いた。

 「長命寺桜餅」

 江戸における桜餅の元祖だ。

 関西における桜餅は道明寺粉を使用する。おはぎのような食感だ。江戸では小麦粉のほかにさまざまなものを混ぜ、水で伸ばし、焼いて皮を作る。その皮で漉し餡を包み、桜の葉でさらに包む。

 小さな引き戸を開け中に入る。数坪の狭い店内に、親子連れの先客がいた。桜餅を買って、隅田川で花見をしながら食べようというのだろう。

 奥から白い割烹着のおばさんが 三人ぞろぞろ出てくる。いらっしゃいませ、と言うと店内が華やぐ。

 「あのう、はじめまして・・・・・・」

 シホが先ほどの不機嫌さからは打って変わって、鼻にかかったかわいらしい声で話しはじめる。ボクはその様子に鼻白んでしまい、そっぽを向くように振り返った。引き戸の向こうには首都高の高架に切り取られた青空と、潮風に重たげにゆれる桜の花が見えた。

 シホは上野にあるハードロックカフェ「バック・イン・ブラック」の店員だ。その店長が何を思ったのか、春季限定で「長命寺桜餅」を出すことを画策した。その交渉にシホを遣わしたのである。

 シホのカレシであるケンジの家でそんな話を聞かされた。

 一緒にデートをしたいシホが散々おねだりしていたのが飛び火して、ボクが行くことになってしまった。ケンジは経営している私塾の準備やらなにやらで忙しかったのだ。

 

  おばさんはパートさんらしく、桜餅をシホの店で出したい、という依頼には上に聞いてみなければわからない、と返事した。

  せっかく来たのだから、桜餅を一つずつ食べようということになった。

  店の半分は、食べるためのスペースになっていた。スペースには緋毛氈の敷かれた長椅子があって、二人で並んで座って食べた。桜餅には煎茶が付いていた。

  桜餅を包む肉厚な葉を一枚ずつ剥がす。桜の葉は塩漬けになっていて、剥がすたびに桜の葉の香りが鼻腔をくすぐる。

  「いい香り」

  シホも桜の葉をめくりながら言った。

  餅を三枚の葉で包むというのがこの店のルールだ。

  葉から出て来た白い皮の餅を、そっと鼻に近づける。桜の葉の香りと中の餡の香りとが鼻に入ってくる。そっと脇を見ると、シホも目を閉じて、香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。その日のシホは真っ赤な口紅をしていた。まるで口づけをしているようだった。顎が微かに上がり、胸が膨らんでいた。ウェーブのかかったポニーの尻尾が少し揺れる。

  様子をうかがっているのを隠すように、餅を口にふくむ。控えめにもちもちした皮の食感と、ねっとりとした餡の甘さが口の中に拡がる。

  同じように、餅を頬張ったシホが、「美味しい」と感嘆の声をあげた。

  「ありがとうございます」

  とお礼を述べながら、白髪でおかっぱ頭の店員さんが、煎茶のおかわりを注ぎにやってきた。

  シホと店員さんがやりとりをしていたのだが、まるで耳に入ってこなかった。

  桜の葉の香りを嗅ごうとして嗅覚が鋭敏になったのか、シホの身体の匂いに気づいた。隅田川沿いを歩いていたときには風のせいで分からなかった。バラの香りのボディクリームや髪の匂いは風に乗って拡がっていたので気づいていた。その奥に、なんとも形容しがたい生き物の匂いがした。

 

  隅田川沿いを歩いて帰る。

  日が傾き始めていた。

  「長命寺桜餅」の店は、桜並木の端の方にあった。対岸にはスポーツセンターが建っていた。ユリカモメが浮く、隅田川の波頭は逆立ってきていた。陽の高いころより、色は暗く、冷たそうだった。

  桜並木の間には酔客がそこかしこにいる。

  楽しそうな様子を見て、「いいなあ」とシホが羨ましそうに言うが。ボクは「そうかな」と言いそうになって止した。

  「ロックカフェのお花見はもう少し先の予定だけど、今年はムリそう・・・・・・」とさみしそうに、独り言のように言った。理由は言わなかった。聞きたかったが、ボクも強いて聞かなかった。

  頭の上には首都高の高架がある。轟々と轟音をあげて、車はひっきりなしに通り過ぎて行く。

  「あれ、なんの声」

  不意にシホが言う。

  いよいよ盛りが過ぎたのか、海風に舞って、ボクの顔に向かって、舞い飛んで来た桜の花を払いながら、ボクは耳をそばだてる。

  車の通る轟音の切れ間に、何かを語る声がした。落語のようだった。

 その声は張りがあり、かなりの喧噪なのだが、そのなかを負けじと貫く強さがあった。二人して見回して声の主を探すのだが、どこにいるのかわからない。シホがかかとの高いヒールを鳴らして、川面に近づいた。ボクも後から続く。コンクリ塀の際まで歩く。「こっちだ」と言いつつ、土手から下へと続く階段に向かった。高いヒールのせいでおぼつかない足取りで、シホは階段を降りてゆく。ボクも続いた。

 階段の下は川面の水際すれすれまで近づけるように、整備されている。階の上が土手なら、階の下は河川敷とでもいおうか。河川敷には隅田テラスという名前が付けられていた。

 階段を降りて、テラスに出て、土手のある壁の方を振り返ると、一本だけ桜の樹があった。他の桜と同じように満開に咲き誇り、隅田川の水面と一緒に風に揺られている。どうしてこんなところにぽつねんと立っているのか、とあたりを見回すが、河川敷には他に桜はない。これっきりだ。

 樹の下に小さなゴザを敷き、男が一人座り、根多をくっている。現代人の間尺からすれば小柄の部類だが、雰囲気に華があった。にこりと笑うと品があるとは言えぬが、なんとも愛嬌があった。声はしゃがれていて、甲高い。

 シホは座ってしゃべる男のすぐ前に、抱え膝で座る。桜色のスプリングコートの裾をお尻で押さえていた。ちょうど男の目線とシホの目線が合っているはずだ。男はそんなことはお構いなしにしゃべる。

 ボクは二人から少し離れ、水際の柵に凭れていた。

 根多は「道灌」だと思う。自信はないが。

 「道灌」ははっつあんとご隠居さんのやりとりが中心の話。雨に降られた太田道灌が賤女に簑を借りようとやってくる。賤女は「貸す簑がない」ということを、歌の知識を使って伝える。はっつあんはその逸話を利用して自分も傘を借りに来るご近所を撃退しようと考えるのだが、例によって失敗するという話だ。

 「来やがったな道灌。なんだいケダモノ。ケダモノ? なんだい。ちょいと借り物。わかってるよ、皆まで言うな。万事心得てるんだ、傘だろ、雨具だろ。オレ合羽着てるよ。え、お、このやろ着てやがるよ。手回しの良い道灌だね。なんだよ道灌ってな。これから千住まで行って、返り、車引いてくる。遅くなると暗くなる。提灯貸せ。止せよ、おい。道灌が提灯なんぞ借りてくれるなよ。嘘だろ。嘘じゃないよ。嘘だよぉ。雨具だろ。着てるよ。もう一枚借りろい。なに言ってんだい」

 淀みなく話は進む。最後の落げまで終わって、男は一礼をした。頭を上げてから、

 「どうだいねえさん」

 と男はシホの顔をのぞき込むようにして聞いた。

 「うーん、まあまあね」

 ずいぶんな言い方だね、と言って、男は腕を組んで肩を落としてうなだれた。

 ボクはうまいと感じた。シホはもしかして耳が肥えているのだろうか。

 ――だって、道灌って誰?

 辺りの空気が二、三度下がった気がした。

 こいつはいったいなにを聞いていたのだろうか。

 ――どうして歌を見せると簑を貸さなくてすむの。

 根多の根幹について質問しちゃった。

 あまりのことに「よぉ、にいさん、助けてくれよ」とシホの肩口から顔を覗かせて、ボクに助けを求めた。ボクは水際の柵から身を持ち上げて、二人の所まで歩いて行った。

 ほうっておいてくれ、と言おうとしたボクを遮るようにして、シホが言った。

 「これに出てくる歌あったでしょ。あれ書いてよ」

 「どういうことだい」

 「だって、あれあると止められるんでしょ」

 「まあね」

 男は仕方なしといった感じで、メモ書きを取り出してそこに道灌に出てくる歌を書いて、切り取ってシホに渡した。シホはそれを音読した。

 「ななへ、やへ・・・・・・」

 「正気かい、ねえさん。はっつあんと同じことしてやがるよ。ぼけてるつもりかい」

 とボクを見る。

 「いやマジだと思うよ・・・・・・」

 ボクと男の二人は、困惑した。

 賤女の使った歌は、「七重八重花は咲けども山吹のみの一つなきぞかなしき」である。この歌を読み間違えるのが落ちなのである。

 「なんかバカにしてない」

 バカはバカにされることを異様に嫌う。

 「そりゃあね。今わかったけど、はっつあん以上に理解力のない人間には、根多ってのはわからないもんなんだね。それにしても、今時傘なんて借りに来るかい? コンビニで買った方が早いやね」

 「違うの。私ね、アイドルをやってるの」

 初耳だった。

 「店の女の子たちとグループを組んでね、ベビーメタルの向こうを張ろうということになったのね。でもね、うまくいかなくて」

 「やめたいわけだね」

 「ううん、逆。もう売れないからって、解散が決まってるの。みんなストレスに負けちゃって。自分勝手でさ。男関係もアイドルやる前よりも派手になっちゃって、それを叱ったら揉めちゃってさ。一応私がリーダーだったんだけど。最終的に私が悪人になっちゃって。私がいないところで櫛の歯が抜けるみたいに一人ひとり辞めちゃってさ。この歌見せれば、解散止められるかな」

 「無責任なこと言えないから、はっきり言うけど・・・・・・」

 「無理なのね」

 むむむ、と言いながら男は肩を怒らせた。

 そうよね、と言いながらシホは立ち上がった。

 海からの風が男の頭上の桜の枝を揺らし、桜の花びらを散らした。

 すでに歩き出したシホの少し後ろから、

 「村雨だね、まるで」

 というと、

 「村雨ってなに」

 コイツ、なんにも聞いてないで、人の根多をつまらないとか言ってたのかよ。

ーー了ーー

(四九九五文字)←Word調べ。

 

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