日曜日にファミレスで昼食を食べた。
安くて評判のみせだ。
ガチャンという音がして振り返ると、おばあさんが食器を落としていた。中国からきた留学生だと思われる女性の店員が緩慢に近づいた。少し恰幅の良いおばあさんの動きも遅かった。中国人の店員は察して、素早く落としたスープカップを拾い、「拭くものを持ってきます」と立ち去った。「大丈夫ですよ」と言ったおばあさんの顔は引きつっていた。
おばあさんは独りでやってきたらしい。ふと見回すとそんなおばあさんがたくさんいた。
おばあさんたちの店の選択は消費者として間違っていない。店員さんも間違っていない。誰も間違っていない。
誰も悪くないのだが、なんだか寂しい気分になった。
その根底に偏見があるのだ、と言われれば、そうかもしれないとしか言いようがない。昔から同じように感じるのだが、それがどうしてかわからない。独りで安い店で飯を食うおばあさんにどうしても侘しさを感じてしまう。
大勢のおばあさんたちが喫茶店などにいると、うるさいとは思うがさびしいとは思わない。
おばあさんたちがどんな店にいたらさみしくないのか考えた。独りでいて、風景にはまり、そしてリーズナブルで、となると非常にすくない。
喫茶店のランチだといけそうな気がする。立ち食いでない蕎麦屋、うどん屋、この辺はいけそうだ。独りでトンカツ、というのも剛毅でよい。しかし、独りで定食屋にいるおばあさんはなんだかさみしい。
周囲の風景に馴染まないからだろう。
若い子やじいさんだと、独りでいてはまる店は多い。
高い店ならば独りでいる意味合いが変わるので逆にかっこよくなる。
それは従来の顧客層からすれば当然だ。
ただ、女の人だって外食をしたいだろうにね。若い女ばかり持ち上げていないで、そういう人がいられる店ができたらいいと思った。
なんてつまらないかとを考えていたら、鼻白んでしまった。女性に何かを求めているのだろうが、それがなんだか訳が分からなくなったからだ。
なんらかの美意識を求めているようで、なんだか偏っているのだ。独りで侘しい様子で食事をするのは嫌なのに、風呂上がりに裸でやってきても何とも思わない。屁をされても平気。
けれど、箸の持ち方が悪いとちょっと嫌だ。
こういう要求わ満たせる女性をどんな女と呼ぶのか、私には分からない。