今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

小室哲哉引退ーー十分日記123

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今朝起きて急に思い出したのだが、私の立場は小室哲哉ではなくKeikoのほうの立場であった。

病気になって入退院を繰り返していた時に、その頃の彼女、つまり今の妻にこう言っていた。

「こーゆー状態になってしまったから、おそらく子供も育てられないし、見捨てられても仕方がないよ」

このような物言いをすれば、彼女が逆に別れるのが辛くなるだろうと思って、「文字通りとってよ。本心だからね」ということを強調していた。だがちょっと卑怯な言い方だったろうと今でも思う。その当時も思っていた。ただきちんと気持ちを伝えておかなければならない、という妙な使命感はあった。

人一人の人生を自分のために無駄に終わらせるわけにはいかない。そんな使命感だ。介護の現場でも相手を持て余してしまって、暴力を振ったりする事件が絶えない。給料も安く、現場は個人がやるよりきついだろうが、プロでもそのようなことが起きるのである。このまま入退院を繰り返せば、きっと見捨てられるのだと思っていた。その準備を心の中でしていたのかもしれない。何にせよ、話だけ聞けば、「勝手なことを言う奴だ」と思う人間はいるだろう。

 

昨日も爆笑問題のサンデージャポンでギャル曽根が切れていた。

要するに、裏切られた家族の気持ちを代弁しているようだったが、そうであるようでいて、自分が裏切られたくないという意思表明だろう。見ていて、「そう言えばいいのに」という思いと、「小室哲哉の言っていることが本当だったらどうするんだろう」という思いを抱いた。もっとも、あの番組のことだから、ギャル曽根に本意とは違うけれども、そう言わせている可能性はあるが。

ギャル曽根のような立場の人はハナから相手の言っていることが嘘だと決めつけているのだと思う。わざわざ自らがインポテンツだということや、妻の現状を明らかにする必要はないのである。そうでないと、誤解は解けないと思ったから言ったのである。と取るのが普通なのだが。

「小室哲哉、keikoのこと言いすぎ」とか言っている人間もそこのところがわかっていないのかもしれない。そうでないと、説明がつかないのである。普通なら相手型のご両親に許可を得ているのが普通なのだが、本当のところはわからない。夫婦のことだからよしとしたのかもしれない。

幸い、私と妻は意思の疎通ができる。これは小室哲哉の家庭と比べればかなりの差だ。

病人になってその親は扶養する義務があると思うが、配偶者にまでそれを義務とするのは間違っているだろう。それは配偶者に過度な期待をしすぎなのである。ましてや、意思の疎通が難しい相手であれば、その困難は想像に難くない。

 

介護を放棄することはなかなか難しいし大変だろう。けれども、あまり「自分がやらなければならない」と気負わないで、外部の助けを求めても差し支えない。手を抜くべきところは抜けばいいのである。

あと、小室哲哉(なんだろう。どうしても、フルネームで書きたくなる)が女性になら自分の意思を言うことができる、という一見すると詭弁と感じる言葉も、ちょっとわかる気がする。私もどうも男性の医師が苦手だ。もともと人見知りだったらしい私は三枚目になることで人と関わることができるようになった。それを若い頃、医師に強く窘められたことがあり、それ以来どうもダメだ。身体が拒否するのである。診察の前には大量に発汗する。のぼせたようにある。最近も、とある大先生に威圧的に接しられて以来、その感覚がぶり返してしまった。ただ、他の科だと平気だったりする。威圧的な男性医師だとだめらしい。もっとも、小室哲哉の言葉は嘘っぽいが。

 

書いていて気づいたが、小室哲哉が本当に引退するなら、これは「介護離職」じゃないか。悪手だ。詳しくは、北野武「アナログ」を読んでほしい。もちろん、いきなりやめることはないだろうが。社会とつながって、収入を確保したほうが介護をする人間にとっても良い。後者は大丈夫だろうけど、前者は心許ない。

 

話を大幅に戻すと、keikoが私のように思っていれば、裏切られることは覚悟しているはずだし、それは仕方がないと思っているはずだ。「そうに違いない」と言いたいのではない。「どう思っているのかはわからない」ということだ。病気というファクターが間に挟まると、人間関係はより複雑になり、そう簡単に割り切れるものではない。

なんにせよ、文春が言っていた「本意ではない結果」とはどういう意味だろう。小室哲哉がもっと戦うとおもっていたのだろうか。介護って、端からみててもその疲労度は他人にはわからないものだよ。