今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

ハウルの動く城の私的解釈2ーー十分日記188

 

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ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔 (徳間文庫)

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pieceさん、コメントありがとうございます。呼び出すことはできないのかな。呼んでいただけたら幸いです。

お返事が遅れまして申し訳ない。

さて、今回はpieceさんの質問に答える形で書いてみましょう。あまり体調がよろしくないので、簡潔にいきます。

おそらくpieceさんは本当の理由が知りたいというよりも、そこにどういう隠喩があるのかが知りたいのだと思います。私が以前に書いた「錬金術v.s.科学」という隠喩で見るとどうなるか、ということなんだと思います。それに即して考えてみましょう。

カルシファーの質問が難しそうですね。

 

1,ソフィーがおばあさんになった理由

ソフィーは帽子屋さんを営んでいます。しかも、女性。こう書くとわかると思いますが、ソフィーは本来は科学側(近代側と言ってもいい)の人間です。ソフィーという名前自体も知恵を現します。その彼女にいじわるをするために荒れ地の魔女(錬金術師側)は呪いをかけます。もちろんソフィーを囮にしてハウルを動かすためかもしれませんね。

あと、ソフィーはカルシファー(悪魔で魔法を象徴)を使うことができます。

二つの関係を総合すると、ソフィーは錬金術と科学の境界にいる人間なのです。いわば、ナウシカです。

境界にいる人は同情されます。ナウシカのように悲劇に見舞われることが多いからです。同時に反感も買います。どちらにも付かない人間というのはそういうものです。だから呪いをかけられたとも言えます。

この境界にいる人間、狭間にいる人間というモチーフは宮崎駿の作品でよく使われるものですね。「風立ちぬ」もそうです。「となりのトトロ」もそうです。「もののけ姫」もそうですね。

 

ただ、隠喩を外したほんとうの理由は「おもしろいから」でいいと思います。あんまりディテールに隠喩をあてるのは良くないかもしれませんね。世界観全体の設定に隠喩を探すのはいいですけど。

 

2,ソフィーとハウルが愛し合う理由

最終的にハウルは人間に戻ります。カルシファーから心臓を取り戻します。その代わり別の人間がカルシファーと契約します。これは後段出てきます。

その理由は結局、ハウルが科学に負けたからです。つまり、錬金術が魔法を失うこと、悪魔と契約が完結して人間に戻ること、それらの象徴が二人が愛し合うことなのかもしれませんね。また、ナウシカにハッピーエンドを味わわせたかったからかもしれません。いや違うか。もう少し、後で詳しく説明します。

本当は好きに理由はない、いいんですけどね。

 

4,城の動く理由

魔法使いは、悪魔と契約してその力を得ています。

カルシファーはその動力源の悪魔です。

火を操る必要がある局面は家事でもあります。

魔法である火を操ることで、昔の主婦は家、城を動かしているということでしょう。

そうそう、ソフィーは呪いにかかりおばあさんになることで、昔の女性に戻ったともいえます。子ども(マルクル)も得て、一生懸命家事に励むソフィーの姿を、帽子屋を経営しているときのソフィーの姿よりも溌剌とさせて宮崎駿は描いています。

そんなソフィーにハウルは惚れます。

女性蔑視ではないでしょう。溌剌としている女性が宮崎駿は好きなのかもしれません。ハウルと宮崎駿は昔気質の人間なのでしょうね。

 

3,終盤に城を移動させる際にカルシファーが城を一度出る理由。

これが難問です。

 この話は、「錬金術v.s.科学」の図式だと書きました。

この図式が終了するということは、近代が始まるということです。

この動く城とは「前近代の家」を象徴しています。

荒れ地の魔女が妙な物をカルシファーにくべることで弱まります。これは産業の発展を意味します。そこから魔女は懸命に煙草を吸います。この煙草は公害です。魔法である火に妙な物をくべたら、公害が発生したのです。だから皆がこの煙草を忌み嫌います。ただ公害を出している当の本人は思考力が低下しているので、悦楽の表情で吸っているのです。これが現しているのは近代が家の中に入ってきたということです。

そして男は科学の世界である外で戦います。科学の世界では錬金術師はただの野蛮人なので、ハウルは獣の姿になってしまいます。ハウルは「守る物ができたから戦う」と言って外で戦っています。守る物とは、「前近代の家」です。

これを終らせるためには、家の中を完全に「近代の家」にせねばなりません。ハウルが守りたがる「前近代の家」をなくせば守る必要はなくなりますね。だから一度カルシファーを城から出し、「前近代の家」を崩壊させ、もう一度なかに入れることで「近代の家」を作り出すという作業をしようとソフィーは考えます。

 

さて、我々が強くイメージする家庭のイメージはたかだか明治維新後にできあがったものです。その基盤は家父長制です。父親が外で働き、母親は主婦として家を守る制度です。もちろん、武士の家では江戸時代も家父長制です。しかし、一般の家庭はそうでもなく、女性も働いています。我々は明治政府のせいで、自分たちの昔のイメージを江戸時代の武士に連結させて考えがちです。そのイメージは間違っています。

それが「近代の家」では、家父長制に固定されていきます。

 

ソフィーはカルシファーを一度出し、もう一度城に入れたときに、悪魔であるカルシファーと契約を交わします。それは自分の髪を差し出すことで完了します。それは心臓を差し出したハウルほどの魔法は使えないけれども、火を操る能力を身につけたということでしょう。だから、カルシファーは死なないのです。

この一連の作業を表現するために、一度カルシファーを城から出したのだと思います。

ただ、私的解釈なので妄想に近いのですが。

これはおっくうなので確認しませんが、ソフィーは近代に関わるときに若い姿に見えるようになっている気もします。細かく確認いていませんが。

最後、お父さん、お母さん、子ども、ペット、介護のいるおばあちゃん、という図式ができあがりますが、本当に「近代の家」そのものですよね。

 

疲れたので説明を終りますが、つうか、説明なさ過ぎ。

この解説を読んで、「女性蔑視的」とか言うのは間違っています。最近は一応こういうことを書いておかねばならないのです。

近代の始まりの物語を描いているというだけで、それがよいとか悪いとか考えてないような気もします。「紅の豚」では女性たちが溌剌と働く様子を描いていますしね。溌剌とした女性が好きなんじゃないでしょうか。

最後にあくまでこれは私的解釈なので、「違うんじゃネーの」と思っても仕方のないものです。

下血ーー十分日記187

手短に。

医者の記事に反論を前回書いた。

その罰が当たったのか。

大量の血便が出た。血便を通り越して、下血である。

もうピューピュー尻から出た。

 

当然、貧血になって、立って歩けなくなった。

医者に行こうかと思ったが、その日は台風の前日。これから天気が悪くなるのは分かっていた。そのタイミングで救急車を呼ぶのははた迷惑だと思った。タクシーに乗るまでが大騒ぎで(立てない。歩けない)、タクシーの後部座席に座っていくのが無理かもしれない。途中でまた尻からピューピュー血を吹くかもしれない、と思うと病院に行く気になれなかった。

そのまま入院も嫌だと思った。いや四の五の言っているが、本音は入院回避がほとんどの理由だ。しかし、入院せざるを得ないときは、嫌でもせねばならない状況になる。

とりあえず、翌日の朝方に台風は抜けるようなので、様子を見ることにした。

幸い、身を横たえていればそれほど苦痛ではなかった。

それでも同じように鮮血が尻から出るようならば、もう救急車を呼んででも病院に行かねばならないと思っていた。

 

翌日、幸か不幸か、体調はかなり回復した。

前日までは立って歩くことも、トイレの便座に座ることも辛かった。

目の前が貧血でブラックアウトするのである。

それが立って用を足すことも可能になった。

夕方駅前に買い物に行ったが、そのときはさすがに辛かった。

ということで、来週の主治医の担当曜日までなんとか保たそうということになった。

 

その翌日は今日であるが、なんだか微熱があるが体調はどんどん快方に向かっている。もちろん、無理はしないが。

 

さて、原因だが。

抗生物質であると素人判断している。

抗生物質が腸内の細菌のバランスを崩し、そのせいで粘膜を攻撃することは、以前一回だけ経験した。しかし、尻からピューピューということはなかった。便座に座れないので風呂の浴槽に入って、力を入れる度に尻からピューピュー血が出た。もうトラウマになりそうだ。

とりあえず、来週、入院にならなければいいなと思っている。

入院になったら、ブログを書きまくろう。

いや、生きる希望もなくなり、なにもしないで本ばかり読むか、ゲームばかりする日々になるだろう。

 

イシのイシきーー十分日記186

 

news.yahoo.co.jp

とうとう患者の視点が繰るかと思いきや、けっこうとんでもな記事である。

私の感覚が患者一般であるかどうかはわからないが、私の場合こうするというところを含めて反論を挙げておこう。

「読者の皆さんは病院を受診したとき、担当医が女性だと『頼りないなあ』とか『不安だなあ』と思ったことはないだろうか。」

ほぼない。

逆に、特に中堅からベテランの男性医師に比べ、女性のほうがシャープな話し方をするので、そうは思わない。

「また、女性の医師を看護師と間違えたことはないだろうか」

ない。格好が全然違う。

「医療は患者さんがいるから仕事が発生する。病気やケガは24時間365日発生するので、今病院遣ってないから明日にしてください、とは言いにくい。」

こんなことはしょっちゅうだろう。

だいたい、主治医(診察をしている医師)が病院にいるかどうかは分からないので、少なくとも調子が悪くても次の日に病院が始まるまではうなりながら待つ。私はそうしているのだが、そうではないのだろうか。

もちろん生死を分ける状態なら救急車を呼ぶが。

特に最近は調子が悪くなって病院に行っても、新しい症状だと断られることが増えた。

医師の働き方改革では、これが医師の長時間労働をもたらしているとして、「複数主治医制」を導入しようとしている。

 建前としてなのか、ずっと病院は「チーム医療」をうたっている。要するに、複数の医師や看護師、薬剤師で情報を共有し、治療計画を練り実行するという形だ。もちろん、建前なのかもしれないが。診察する医師を主治医とすれば、主治医はコロコロ変わる。それは当然である。電子カルテによって、他科の情報まで瞬時に共有できるのでそれは可能なのである。

 

記事中では医療制度改革で医師の労働時間の削減を提言していると書かれているのだが、改革がどうして不可能なのか。それは人数を増やさないからである。特にそれで割を食っているのが看護師の数である。

まあ、減った減った。

患者が欲しいのは、男性の医師ではなく、女性の医師でもなく、優秀な医師である。優秀なら性別は問わない。

年齢を見ると、七一年生まれの病理専門医の方が書いている。わたしより年上だ。

わたしたちの年代が二十代のころに、同じ年代の男性が同じような悲鳴を上げていた。「もう会話ができない」と。

セクハラが厳格化しはじめた世代なのだろう。

このような医師のような反応は数十年前を思い出す。

年齢かと思ったら、女性がいなかったらセクハラになるわけがないのである。

 

 

内田裕也--十分日記185

逆走台風とその前の大雨で大変な思いをされてる方もおられるだろう。お見舞い申し上げる。

 

先の日曜日に、内田裕也のドキュメンタリーが放送されていた。

御歳78になんなんとす、御大の来歴とニューイヤーロックフェスティバルのリハーサル風景を写したものである。

あの、伝説の政見放送も流れた。監督は崔洋一である。

 

色々気になったが、一番はヘロヘロながら、いきなり切れるシーンであった。オープニングの曲を調整しているところに、「幕はいつ上げる?」と質問され、ブチ切れ。

「いまロックンローラーが一生懸命やってんだよ。ちょっと待てよ」

まわりは慣れっこなのだろう。誰も動じない。

こんなシーンがいくつかあった。

見ていて思い出した人がいた。

 

はぁちゅう氏である。

彼女に思想などによる一貫した行動はない。一貫した行動も取らない。

たぶん彼女のなかでは一貫性もあるし、理屈もあるのだろうけど、周りから見ると、そうは見えない。触るもの皆傷つけるような感じがする。ついでに自分も傷つくような。そんな刹那的な感じがするのである。

 

me_tooを盛り上げた立役者がしみけんと事実婚をした段階で、なんかpunkだなと思った。内田裕也を見ていて、それを確信した。

内田裕也は一見すると滑稽である。政見放送で「power to the people」と歌い続ける姿がドキュメンタリーで放送された。当時、キョトンとして見た覚えがある。滑稽である。が、本人は真剣である。それで自信もついたらしい。

惨めだけど最後はビシッと決める、ハードボイルドの主人公のような人である。

 

彼女の行動原理は、少なくとも周りから見ていると、気に入るか気に入らないか、快か不快か、に見える。気に入らなければ告発し、不快なら、負けるかもしれないのに吉田豪にまで喧嘩を売る。

なんとなく刹那的なかっこよさがある。しみけんが惚れたのもそんな部分なのではないだろうか。

 

間違えないでほしいが、皮肉ってるわけでもなく、けっこう本気だかっこいいな、と思っている。

内田裕也のドキュメンタリーを見ていて、はぁちゅう氏のことが少しだけわかったというだけで、二人は似ていない。告訴されそうなので、それは強調したい。もっとも彼女が読むわけないが。

ただ共通していることもあって、それはあまり距離を詰めたくない相手だということだ。これからも静かに遠くから彼女を見ていたい。

ドキュメンタリーは来週後編があるから見てみてほしい。

悪魔が来たりて笛を吹く2018ーー十分日記184

先週のBSは「横溝正史」祭りであった。

市川崑監督作品が軒並み放送され、「悪魔が来たりて笛を吹く」の新作が放送された。主演は吉岡秀隆であった。

時は戦後まもなくの東京の子爵家、椿家を舞台にした凄惨な連続殺人事件である。

この椿家には後に「畜生道」と言われるほどの秘密を抱えていた。

椿美彌子(志田未来)は金田一耕助(吉岡秀隆)の許を尋ねる。

「父の死の真相を探って欲しい。これから行われる占いの儀式に参加して欲しい」

それを渋々受け入れて(下宿の大家に脅される)、椿子爵家に赴く。

同時期に天銀堂事件という毒物を使用した強盗殺人事件が発生。その容疑者のモンタージュと似ているということで、フルート奏者の椿英輔氏が容疑を疑われ、自殺したのである。娘の美彌子はその無実を疑わない。

旧子爵家はなんとも重苦しい空気であった。

戦後のGHQの方針により、華族制度は廃止された。それはそこから没落していく運命であるのだが、椿家の特に親世代はそれを受け入れられない。上記、天銀堂事件は帝銀事件を下地にしているが、帝銀事件が1948年、華族制度の廃止が前年である。このあとに受け入れざるを得なくなるだろうが、この時期はそういうこともあったろう。

これは大衆の貴族に対するイメージだが、なんとなく淫靡な感じがある。その淫靡さを象徴するように、椿家は淫蕩なのである。それがもとで、外に漏らせば大問題になる醜聞を抱え、「悪魔」を誕生させる。その悪魔が椿家に来て、暴れるのである。

「悪魔」は醜聞に関係したものを次々と殺害していく。

 

私としては、吉岡秀隆の金田一耕助は良かったと思う。

年齢的には元設定の金田一よりも、歳を取っているのだが。

いつもそうだが、金田一シリーズは劇画調に展開する。吉岡秀隆バージョンはすぐに目をひん剥いているのである。だが、どれもそうなのでそれでよいのである。吉岡秀隆といえば、つぶらな目をショボショボさせている印象があるが、その向こうを張ったのだろうか。

 

映像としてはやはり個人的には市川崑のほうがよい。この作品は市川崑が取っていないのであるが、他作品の映像美が好きだ。

どの役者がやった金田一耕助がベストか、というテーマは非常におもしろい。

印象にあるのはテレビシリーズをやっていた、古谷一行の印象が強い。が、やはり石坂浩二が好きだ。今回の吉岡秀隆は原作に近いのかな。長谷川博巳は愛嬌のある感じはしない。調べたら、役所広司とかもやってるのか。渥美清は見た。金田一っぽくなかった。愛川欽也の金田一ってすごいな。

 

金田一耕助の事件匣 市川崑×石坂浩二 劇場版・金田一耕助シリーズ DVD-BOX

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正義なんてどこにーー十分日記183

ハゲックス氏刺殺事件は余波が続いているらしい。

強靱化のすすめ」のふのいさんまで動揺していて驚いた。

がすぐに、「人なら動揺して当たり前だろう。自分たちの近くで刺殺事件が起こってるのだから」と思い直した。

 

事件が起こったとき、我々はバイアスがかかりまくりの情報、濃霧のなかを手探りで進んでいるのであって、十全に調査ができるかというと、それはできないのだ。

それはふのいさんに言っておきたい。もちろん、このような話の内容で、自分であげたことを、なんら調査もせずに言及するのは不誠実だというのは間違いがないが。それくらいは差っ引いて読んであげよう。

また犯罪者を総体として一般化もできないよ。

同情できる犯罪者もいれば、同情できない犯罪者もいるだろうね。

あと、彼は最後に気づいちゃったんだよ。このままだと誤解されるって。だから、訳のわからない解釈で適当なことを書いたんだと思う。

 

それにしてもその後、はてなブックマークを見ていて、さっそくブロガーを煽る増田を載せている馬鹿がいて、ほとほと愛想がつきた。

強烈な刺激があった場合、行動が変化するのが普通だ。それが痛みなら再び痛くならないように回避する。刺激に対しての反応が鈍い人間を「グズ」もしくは「バカ」という。

川上氏と同じような書き口になってしまって呆れられるかも知れないが、事件のことを知ったとき、「言わんこっちゃないう。我々はハゲックスさんを殺し、犯人に殺させたのだ」と思ったのと同時に、「これでブックマークは変わるかもしれない」というのと「それでも変わらんかもな」という気持ちが半々で起こった。

 

グズが出てきて煽っているのを見て、なるべく自分は目に触れないようにすることにした。

もともと、はてなに到るときはPCの場合、ブラウザのブックマークをはてなのトップページにしていた。その最上段に人気のはてなブックマークが並ぶ。ここを経由しないで、いきなり自ブログのダッシュボードに行くようにブラウザのブックマークを直した。(ややこしい)

自ブログのダッシュボードからトップページに行くには、右上のはてなのロゴを経なければならない。一手間加えることで、自然と目に入るのを防止した。これだけで、かなり見なくて済む。スマホやiPadのブックマークアプリはかなり前にすでに削除済み。

ブログのブックマークボタンをこのまま表示するかどうかはかなり迷っている。

実は一番嬉しいのは、スターマークだ。

「読んだよ」と気軽に押してくれ、こちらもリアクションしなくて済むこれが一番嬉しい。

書き手としては、はてなブックマークも実は嬉しい。詳細な返信が不必要だからだ。それをするにはSNSなどを使用しないといけない。ところが、ブックマークは仕様が変わり、返事をするのが面倒になった。「リンク」というボタンがなくなった。だから、読んだよ、というサインのスターを押すだけで済む。これもいい。

だが、本来は消すべきだろう。

 

ブックマーク廃止論を「いつか電池が切れるまで」でfujiponさんが書いてらした。

私の意見としては、おそらくはてなブックマークがなくなれば、そこにある毒が衢(ちまた)にあふれるだけで良いことがない。むしろ、毒は封じるべきだと考える。

毒になりたい者はそこへゆけばよく、毒に触れたくない者は魔窟には行かなければよい。

とにかく、世の中そう簡単には変わらない。危険からは逃げるべし、である。

 

どのブログだかわからなくなってしまったが、実際に炎上させられた? 炎上させてしまった? という記事を読んだ。

心理的には炎上を起こしたときは全員が敵に回って、敵がひと塊に見えるのではないか。それも原形がよくわからない。気体のようで、ゲル状のようで、捉えがたいものだ。昔、互助会騒動のときにちょっとだけ騒動に掠めたことがある。それでもそう見えた。実際に炎上のさなかにいる人間には本当にそう見えるのではないか。

心理的には集団いじめのような。

自分が悪い?

知った風な口をきくな。

人間、すべての情報を知るなんてことはできないんだよ。

肝心な情報をネット上で探すことがどれだけ困難なことか。

一応世の中言論は自由である。

反論も自由である。

ただ、それが倫理上道義上に反する行為で、法に抵触する場合、それを止めるのは法によってなされねばならない。そうでなければ、やられたほうが報復するのも自由だ。法によらない報復はそれがすでに理由なき暴力なのであり、それに報復されても文句は言えない。

とかくネット上は「報復」の概念が薄い。

昔、2ちゃんねるで攻撃された場合、どうやって止めるのが効果的かを考えた。実際の知り合いで2ちゃんねるをやっているであろう人間を、血祭りに上げるのが効果的だ。実際に自分を攻撃しているか否かは問題ではない。物理的に消せば、2ちゃんねるに書き込めない。それを理想的には二,三回繰り返せば良い。

もちろん、実際にやりはしない。攻撃もされていないしね。だが、そういうやつが出てくるのも時間の問題だろうと思っていた。考えたのはもう十年以上前か。よく十年以上保ったよ。

テロとは言わせない。攻撃してきたのは、汚らしい肉塊になっている、顔のないお前らだろう。

なぜブックマークが変わらないか。

それは犠牲の量が足りないからだ。

犠牲が足りないと思っているから、はてなだってブックマークを変えないのである。