今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

就活協定廃止ーー十分日記202

経団連会長の中西氏によって、就活協定廃止の提案があった。

別に廃止宣言ではない。

 

当方は大学時代、就職活動で査収面接の一つ前の面接まで進んで、直後に病気で入院してしまったという体たらくなので、就職活動に特に思い入れはない。

その当時からネットでのエントリーが導入され、その当時ですら、数十社くらいエントリーするのが当たり前になりつつあった。大学の学生課に、「絶対にメールアドレスを持て」と言われた。本当に役に立つ学生課、就職課で、「病気のことをどのようにすればいいのか、伝えるべきなのか、どうなのか」と相談に行ったらば、「言いたきゃ言えば」的なことを禿げの就職課の人間に言われたのをよく覚えている。ああ、これが世の中なのだ、と天を仰いで、愛校心がますます高まったことは言うまでもない。

だからあまり思い入れはない。

むしろ忘れたいことだ。

 

今の就職活動は数百社にエントリーする。

地獄のような話だ。「就活協定が廃止されれば、学生が勉強する時間が無くなる」というが、今もそういう状況だ。

我々が就職する遙か昔には、もっと牧歌的な就職活動が展開されていたらしい。

二、三社回るだけで、決まったそうだ。スーツすら着ないで、適当に面接に行って決まったそうだ。宮崎駿「風立ちぬ」で堀越が就職する時の感じだろう。あれを見ていて、「バイトの面接みたいだ」と思った。

 

「経済情勢が違うのだから」

いやそうでもないみたいだ。もちろん、大卒生が少なく貴重であったからそういうことが通用したのかもしれないが、結局教授などの紹介も多かったと聞く。もっともそういうことになれば、教授のパワハラが・・・・・・、云々かんぬん。

しかし、そっちの方がいいのかもしれない。

 

就活協定がなくなって、そういう牧歌的な状態に戻るのならば、それはいいことだ。

それを達成するためには、大学がもっと企業とのマッチングに関与することだ。

www.mag2.com

こちらのニュースでは、「就活ルールがなくなって困るのは、学生ではなく、それで若者を食い物にしていた大人でしょ」という趣旨の話が書いてある。そういうものがなくなれば、若者の自主性がもっと育つのである、と。

たぶん就活ルールがあろうがなかろうが、自主性や自律性は育つものは育つし、そうでなければ育たないだろう。

前回、「近代はとうとう終った。2011年に」という話を書いた。

この就活ルールも、ものすごく近代的な制度である。

もっとポストモダンにあった制度に換える必要がある。

 

もっと、個人と企業の実情に合ったものが、学生・企業双方に提案されるべきなのだ。

そのために大学ごとにお見合いパーティ的な催しを開いて、マッチングしたらいいと思うのである。

そのパーティに参加する企業は、その大学の卒業生の働く会社。

「まあ、卒業生が働いてるくらいだから、うちの学生にあってるんだろう」ということだ。毎年卒業生が多数入る業界や企業がそこに揃い、話をする。きっとアットホームな空気のなか、自分にあう企業を探せるだろう。

もう学歴フィルターがあるのは当たり前の常識だし、高望みして大企業に行こうとしても馬鹿大学出身者なら、意味が無い。自動的に弾かれるんだから。もう公になってしまったから、堂々と企業はフィルターをかけるだろう。だったら、その学生たちにあう企業をマッチングしてしまえば良い。

「いやオレはもっと夢を見たい」

そういう学生も居るだろう。おそらく現代ではかなり少数派だと思う。

そういう学生には別のパスを用意すれば良いのである。

 

先に挙げた記事に一つだけ共感することがある。

あの就活制度は企業も学生もメリットがないと思っているはずだ。

だって、あれは前時代的な採用制度なのだから。とにかくマンパワーをかき集めるための方法なのだから。

きめ細かく学生の質を確認できるわけがない。

そのためには、多くの時間語り合い、ゆっくりと心を開かせる必要があるのである。

 

先輩たちはゆったりと就職活動をしていたそうだ。

そういう場ならば、リラックスして本音で語ることもできただろう。

採用する側にもその方がメリットがあるような気がするのである。

だから、大学がもっと動いて企業と学生のマッチングをするようにした方がいいと思うのである。

 

面接官の心を操れ! 無敵の就職心理戦略

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こういう人が食い物にしているのかもしれない。 

近代は終ったーー十分日記201

ここでいう近代とは、個人主義と全体主義が同時に成立している様、としておこう。言うまでもなく近代において、どちらの比重が大きいのかというと、全体主義だ。全体主義は「個人より組織の方が価値のあると見なす思考」だとしよう。そうすれば簡単だ。組織とは国家だけでなく、企業や学校も含まれる。

ここに個人主義を絡めることで、「個人が全体主義を選択した」という形になる。

お題に「私の自立」というのがあって、関係あるかなと思ってクリック(これももう死語だね)したら、まったく違う内容だと思われるものが出た。賃貸住宅だから、きっと独り暮らしして自立しました、とか経済的な自立とか、それこそ近代の文脈で語られるくだらない内容だと察せられる。無視して出してしまうことにする。しかも「ウーマン賃貸」。とうとう、me_tooも「流行り」にシフトしたらしい。いや、ここで男女を分けることもme_too案件なんだろう。

話を戻すと、この近代における個人の生き方がとうとう終了したのだと感じたのが、2011年の東日本大震災の直後の出来事があった。

それはスタジオジブリでのことだ。

震災直後に活動を一旦止めるか、否かを決める会議があって、宮崎駿御大が激高して演説をぶったことがあった。YouTubeを探してみたが、そのときの映像はないようだ。簡単に書いてしまえば、「こんなときだからこそ、ジブリは活動せねばならない」ということだった。にもかかわらず、組織はストップした。

言わなくとも分かるだろうが、宮崎駿は組織のトップだ。

いや鈴木敏夫がトップなのか。

どちらでもいいが、きっと鈴木敏夫がトップだったとしても、宮崎駿をなだめすかして一旦活動を止めようという決断をしたのだと思う。

2011年のあのときの映像を見て、「ああ、近代は終了したのだ」と思った。危機的な状況で、組織であるジブリよりも、私的存在である家族を優先したのである。つまり、全体主義よりも個人主義の方が突出したのだ。もちろん、ジブリが悪いとは全く思わない。

 

今年の上半期の朝の連ドラ「半分、青い」が終了した。

そのなかで賛否の分かれたシーンがあったそうだ。

それは主人公の親友の看護師が震災の津波に呑まれて死んでしまうというシーンで、親友は家族よりも(と視聴者は取った)目の前の動けない患者さんを優先して死んでしまう。このことに対して、「そうあるべし」と「家族の方が優先でしょ」という意見に分かれた。

どちらが正しいということはない。

分かれていることが問題なのだ。やはり、「個人主義を優先すべし」という意見が半数を占めるということだ。

 

結論を言ってしまえば、それは個人の判断だ。

もちろん、個人よりも組織を重視せねばならない職業も存在する。

消防士、自衛隊、救急隊、海上保安庁の職員などである。そこには異論が無いだろう。「家族もあるだろうに」と同情はするが、「じゃあ俺が行く」とはならない。訓練を受けたプロでしかできないことがある。

 

そうでない部分をどう考えるか、である。

普通の会社員は本当はどっちでもいいとみな考えているのだろうね、そろそろ。たとえば、重要な取引であっても、家族に重大な事故があれば、そちらを優先すべきだと言うことを、取引相手も理解しなければならないという時代なのだろう。

おじさんにはイマイチついて行けないけどね。

問題の医師とか看護師はどうだろう。

脚本を書いた北川悦吏子さんは病気で苦しんだらしい。そういう個人的な感情からも、看護師という存在に高い職業倫理を求めた。

 

教師はどうだろう。

アメリカで多発するように日本人には見える、銃乱射事件で教師が生徒の盾になるべきかどうか議論になったそうだ。やはり、意見は分かれたらしい。

 

ただ、最終的に職業倫理が高い人の方が出世するだろうし、尊敬もされる可能性は高い。

しかし、そういう人間になりたいかどうかも個人の選択だ。

個人の選択なのだが、高い職業倫理を発揮する人を否定するのはいただけない。

そうできないのなら、「私はできないけど、この人はすごい」と言うべきだろう。

 

自立も実は個人の選択の範疇になってきている。だから、「部屋を借りようよ」というキャンペーンをぶつのである。

日本古来から一族というのは集住してきた。結婚し家族を持つと、新しく家を建てるのであるが、やはり一族の近所に建てる。

一族でかたまる生き方も選択肢の一つだろう。だから、結婚しないうちは居を別にしない。それも個人の選択だ。

でも、おじさんは高い職業倫理を持って、一度甘えられる環境から出て戦う、自立する道を選択する若者を応援したくなりますね。あんまり長く自立しすぎると異性がいらなくなる問題が出るけど。(無理矢理つなげた)

 

コメント欄に関するお詫びーー十分日記200

以前、バイアグラ的な精力増強剤のスパムコメントを大量に書き込まれるということがあって、コメント欄を承認制にした。

あまりにもコメントが少ない当ブログ、すっかりそんなことを忘れていた。今回、承認制を解除した。

drake(id:kemoxxxxx) さん、ぎぶそん(id:gibson_2200)さん、コメントありがとうございます。おそくなって申し訳ありません。

これからもこりずに、コメントしてください。少ないだけに、すごく嬉しいです。

三国志、孫乾--十分日記197

劉備の配下に孫乾という者がいる。ソンカン、もしくはソンケンと読む場合もある。ここでは、個人的に馴染みの深いソンカンで統一したい。が、結局は漢字で書く。

この男、武将というより、内政官という印象が強い。いや、外交官か。

なにかというと劉備は、「孫乾行ってこい」と彼を各地の使いに出すのである。

どうしてなのか、と常々思っていた。

氏素性を知らなかったのだ。

 

鄭玄という、後漢末期の儒学者がいる。

何進や袁紹に何度も出仕を促されても出仕を断り続けた大儒学者だ。

これは個人的な雑感のうちの一つだが、儒教というのはなんとなく敗者の弁がつきまとう。伯夷・叔斉の逸話はご存じだろう。

二人は弧竹国の王子である。父は弟である叔斉に王位を継がせたがったが、兄伯夷を差し置いて王位に就くのを良しとしなかった。孝行息子である兄伯夷は自分が国を出ることで、父の思いを貫徹し、弟叔斉に王位を継がせようとする。すると、弟叔斉も国を出てしまう。

やがて周の文王の善政の噂を聞いた。文王は太公望が釣りをしているところへ出向いて、出仕を促した人。ものすごく子だくさんであった。倹約して国民を飢えさせないように気を配るなど徳治をした人だ。

だが、二人が会いに行くと、文王は死んでいて、時代の王武王が殷を滅ぼしに行くところだった。その馬車を押しとどめて、戦をいさめた。父が死んだすぐ後に戦を起こすのは良くないということだった。しかし、武王は聞かなかった。

その後二人は山にこもって、餓死する。「周の禄は食まず」ということだった。

 

儒教はこれを聖人としてあがめる。

正しい行いをしていない国に仕えるのをよしとしないのである。

この意味でも鄭玄は聖人的であった。もちろん、このほかにも多くの研究をしたらしい。その辺りは詳しくない。

 

私も初めて知ったときに驚いたが、孔子というのは生前、どの国にも仕官が叶わなかったらしい。孔子は春秋戦国時代に生きた人だが、このときは中国は大内乱期であり、儒教のようなそく戦争や統治に役に立たないものは倦厭されたというのがその理由らしい。が、孔子自体の風貌にも理由があったかもしれない。実は孔子、ものすごくデカかったらしい。こういう書き方をすると、マラの大きさのように感じるだろうが、もちろん身長だぜ。高所から高圧的に道徳を説く人間というのは怖いのだろう。

そういうこともあって、仕官が叶わず。だから、伯夷・叔斉のような人々を「良し」と思ってしまう。人情だなあ。

 

さて、話を戻す。

その大学者鄭玄にはもちろん、多くの弟子がいた。陶謙もその一人だった。その陶謙に譲られる形で徐州の太守になったのが、劉備玄徳だ。鄭玄の元から劉備に使えるようになったのが、孫乾だった。つまり、鄭玄の弟子である孫乾は儒者だったのだ。

鄭玄の名前も相まって、彼には儒者としての信頼、威厳があった。

だから、外交のときに役に立つのだろう。

そうわかって、孫乾という存在が腑に落ちた。

 

ちなみに鄭玄という人物、権威をほしがる袁紹などは必死に出仕を促すが、曹操のように帝ですら、権威ではなく機能を欲するような人物はほしがらなかったみたいである。

以前、諸葛亮の組織がなぜ弱体したかの私論を書いた。曹操の場合、自分を殺そうとした者でさえ雇う。唯才の凄みがそこにある。その結果、もう曹操は要らないのではないかというほど、人材に厚みができた。もともと中原には人が多かったのだが、その才能も黄巾の乱で地方へ散った。それでも、分厚い軍団を作れたのは、曹操自身のすさまじさがある。さすが、「非常の人、超世の傑」である。

 

ただ同時に細かく見ていくと、劉備という人をどうして曹操が脅威に思ったかもよくわかる。吉川英治はその辺りをうまく描けていないのかもしれない。好きだけどね。

 

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大阪なおみーー十分日記195

北海道の地震の影響、特に電力供給が予想よりも早く復旧して何よりだ。北電の方々が不眠不休の活動をしていたという話も聞く。こういうときになんといえばいいか分からないので、「お疲れ様です」と慰労の言葉をかけたい。お疲れ様は目上の人が・・・・・・、まあいいか。

北海道といえば、最近話題の大阪なおみのお母さんの出身地だ。お父さんがハイチ出身なので、(こういうことを書くのははなはだ申し訳ないが)容姿が外国人ぽくなる。

「出た出た」という話だが、「あの人は本当に日本人なのか」と言い出す者が出ているらしい。出自的には歴とした日本人だ。彼女が登場したときにいずれこういうことを言い出すヤツが出てくるだろうとは思っていた。

私が誤解していたのは、彼女の親御さんのどちらかが大阪出身であり、彼女の名前は芸名みたいなもので、付けたのは藤山直美だと思い込んでいたことだ。

 

どこから見ても、彼女は日本人だ。血脈的にも、国籍(現在は日米の二つの国籍を持っている)的にも。ただ、日本語があまりしゃべれない。これは小さい頃からアメリカにいたからだ。そういう日本人も多く存在する。当たり前の話だ。

では、「彼女を日本人として認めてよいものか」と言っている連中の本当の理由は一つ。

「みかけ」だ。

見た目が日本人然としていないのでそう言うのである。

 

ここで言っておくが、民族的出自は一番言ってはいけないものだ。

民族なんてほとんど嘘っぱちだからだ。

一応、日本は大和民族が本来の民族で、と言うが、この大和民族だって、統一的な民族であるか怪しい。いや、民族というくくり自体が政治的なくくり方で、嘘っぱちである。

街を歩いてみればわかるが、いわゆる大和民族的な容貌をしている人達も、よくよく見てみれば、「中国人」「朝鮮半島人」「モンゴル的な人」「南方系の人」など様々な人々が寄せ集まっていることがわかる。

昔司馬遼太郎は、日本人騎馬民族説を唱えていたが、騎馬民族だけで日本人は構成されていない。

平安以前には積極的に渡来人を受け入れていたこともある。秦氏はその名残の名字で、京都の太秦は秦氏の領地であったことはよく知られる。

民族や血筋ではなく血脈でくくるなんて、土台無理な話なのである。

 

もっとも、食べているものや摂取している文化が違うと、なんとなく差異があるような気はする。それは関西人と関東人の差程度の話で、それほど大きなものではない。

 

「大阪なおみ非日本人説」を唱えている人々はいったい、どのような学生生活を送ってきたのだろうと思う。そういう感覚は子どもの頃に養われる。始め、「ん、本当に日本人か」と思っても、ご両親のことやらいろいろ話を聞けば、普通違和感は解消される。「腑に落ちる」のである。

周囲にインド人と大阪人のハーフ(本人はこう表現していた)の同級生がいた。見た目は浅黒い肌を持っていた。だが、下手をすればこの同級生のほうが自分より各種能力が上で、卑下する理由がなかった。もっと子どもっぽく言えば、普通に友達だった。だから、大阪なおみのような存在があるのは理解できるし、違和感もない。

 

もう日本人をくくる方法というのはなくなっていると言って良い。

便宜上、「日本国籍を有している」くらいのもので、国籍を持ちながら海外に住んでいたり、日本で住んでいても在日の方だったり、もしくは国籍は外にあっても仕事などで日本に住んでいたり、様々な状況にある。それをひとくくりにする方法はなかなかない。海外からやってきて、医療費を踏み倒す者がいるらしいが、それは別の問題だ。

 

ただ、大阪なおみの場合、親御さんが日本人なので別だが、別の国の出自で国籍を移すときに、受け入れる条件として「日本語が話せること」というのは、議論すべきなのかもしれない。

日本人になってもらって、その後に様々なサービスを受けたりするときにも、普通に生活するのにも日本語がないと困るわけだし。アメリカなどは英語が話せること、アメリカの国家を尊重できること、などが移民の条件だ、というのをかなり昔に聞いた。今は知らない。

難民などで一時避難する場合は別だが、通常に移民する場合、それくらいの条件は満たしてくれたほうが良いのかもしれない。

 

2018USオープンテニス大坂なおみ優勝記念号 2018年 10 月号 [雑誌]: ダンクシュート 増刊

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