今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

産業構造の変化と人々の対応

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特別講義 コミュニケーション学

 まさりんです。


テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠

 

 このエントリーを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

 結論を言ってしまえば、当たり前じゃないか、という感じです。

 

 

 

 ご存じの通り、戦後いや戦前から産業構造は変化し続けてきました。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/13/dl/13-1-4_02.pdf

 上のリンクは厚生労働省の資料です。

 50年代は第一次産業中心、70年代は第二次産業、2010年には完全に第三次産業主体の産業構造になってきているわけです。もちろん、農業とか漁業、工場ではまったくコミュニケーション能力が要らないとは言いませんが、顧客と四六時中面つき合わせてなきゃいけないわけじゃありません。

 「自分不器用ですから」

とか言っときゃいいんです。

 

 独創性や表現力よりも、正確性とか集中力とか、いわゆる学校で必要とされる能力があったほうが理想的です。ちっちゃな工場で何かを提案すると、工場長に理不尽に殴られるわけです。

 

 でも、第三次産業主体の社会になれば、話は別なのです。

 ヨドバシやビッグで商品の説明を求めたら、しどろもどろになってしまったでは仕方ないです。

 それにネットの普及からでしょうか。顧客の方がコミュニケーション能力が下がってきていて、それに対応しなければいけないのです。だって、すぐキレるでしょ。コミュニケーション能力が高ければ、お互いに激高せずに粘り強く交渉を続ければいいのです。でもそれができなくなってきた。

 

 つまり、我慢できない幼児がお客様なのだから、そりゃコミュニケーション能力は高くないと話にならないのです。

 

 社会全体に要求される通常のコミュニケーション能力が高くなっていくわけですから、一般的なコミュニケーション能力も高くなっていくわけです。それに対応できない人間が「愛想も要領も悪い人」になってしまうのではないでしょうか。それは社会生活に上手に適応できない人と同義だと思うので、一定数で変らないのだと思います。

 

 ただし、例えば接客や交渉などのコミュニケーション能力は技術として身につけられるものではないでしょうか。それを学校で必修科目として教えることにすればいいんですよね。たぶん、芸術科目の数を減らせば可能なんじゃないでしょうか。 <この発想が田舎者なんでしょうね。田舎に芸術をきちんと教えられる教師なんて来ないからね>

 

 コミュニケーションが苦手だという人(人のこと言えないけど)はコミュニケーション自体が流動的だから苦手だと思ってしまうわけです。そこをきちんと教えれば、できるようになると思います。たぶん、産業構造がいきなりコミュニケーションがいらないというようになるとは思えないので、それに対応しなければいけないと書いていていやになっちゃった。


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