今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

もうすぐ絶滅するという芸術の未来について 

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 まさりんです。

 今、「芸術論」的な議論が活発になっています。要するに、このご時世、ファインアートを美術館に見に行く価値があるのかという諸問題について、熱い議論が交わされています。ブログで扱っている人たちはみなさん「見に行く価値がある」とお考えのようです。

 


もうすぐ絶滅するという芸術の未来について - (チェコ好き)の日記

 

 

 わたし的には、やはり「見に行く価値がある」と思います。たぶん、去年だったと思いますが、上野の美術館に来たフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見に行った経験を書きたいと思います。

 

 2000年だったか、1999年だったか。世紀末か、世紀の始めだったか。とにかく節目の年でした。そのタイミングで入院生活を余儀なくされていたので、どちらかだと思います。その節目の年の元旦の新聞でこの絵の模写を見ました。我が家では1月2日の新聞が休みということ、また特集が充実しているので、元旦の新聞は二三社の新聞を購入するのが慣習になっています。この絵があったのは毎日新聞だったと思います。元旦の新聞は別冊的な小冊子が多く付きます。正月のテレビの特集などが入っているのですが、その冊子の一つに全面を使った、「真珠の耳飾りの少女」が掲載されていました。その絵は斜に構え、こちらに向かってふり返っている少女のバストアップが書かれているフェルメールの有名な絵です。少女は金髪をターバンで束ねています。耳にはたぶん真珠でしょう、耳飾りを付けています。その絵のプリントが何をアピールしたものかは忘れました。が、入院中の私は、ターバンの青にすっかり魅入られてしまいました。入院生活で神経が立っていたのかもしれません。子どもの頃から、「青色」が好きでした。子どもの頃は好んで青い色の服を着ていたような気がします。大人になってからは偏らないようにしていますが。その絵の「青色」は見たことも無いくらいきれいな色でした。深く澄んだ青空よりもきれいな青色。美術館に行くのは好きです。それまでは絵のモチーフだの造形だのの小理屈で、絵を評価してきたような気がします。しかし、その絵に出会ってからは、もっと感覚的に「きれいな色」を求めるようになった気がします。一発で打ちのめされるような色。感覚的に絵を見るようになってから好きになったのは、ルオーでしょうか。彼の色の使い方は素晴らしいと思います。

 そんな「真珠の耳飾りの少女」が日本に来ると聞いて、是が非でも見に行かなければと上野まで行きました。ちゃっかり武井咲がイメージキャラクターをつとめ、同じような衣装(安っぽかったですが)を身につけた等身大のパネルなどがあったのはご愛敬。

 さて、運命のご対面です。絵の前には長蛇の列が文字通り、蛇のようにうねって並んでいました。私はその後尾につけると、お目当ての絵が五、六メートル先に見えます。光りの加減で、絵はとても暗く見えました。ところが、耳飾りはその位置からは白く光って見えたのです。毎日新聞で彼の絵の模写を見てから、なぜこの絵のタイトルが「真珠の耳飾りの少女」というのか不思議でした。どう考えてもターバンに目が行くからです。実際に見に行くことで、自分のなかの謎が解決され、新たな魅力が発見されました。

 (記憶を頼りに書いています。記憶のなかの「真珠の耳飾りの少女」の絵は、実際よりも大きいかもしれません)

 

 

 

 

 Artという言葉をネット上にある、オクスフォードの辞書のページで引いてみます。

 1 [uncountable] the use of the imagination to express ideas or feelings, particularly in painting, drawing or sculpture

 

 簡単に訳すと「特に絵画、図画、彫像において、思考や感情を表現するときの創造のための用途」でしょうか。直訳過ぎますが。

 つまり、私見ですが、アウラがなくなったアートは個人の物になるというチェコ好きさんの指摘はその通りだと思います。教会や城から美術館に、美術品が所蔵先を変えるというのは、宗教や統治から民衆に芸術作品が解放されたということでしょう。ただ、所有権はいったん、近代国民国家に移管されます。政治的に利用されることもありました。ワーグナーヒトラーに利用されたのがその例でしょう。そして、第二次世界大戦後に芸術は本格的に解放されるようになりました。演劇などが特にそうですが、国家の支援を受けながら存在するというように、関係性が変化しました。

 上記した訳はそれを象徴していますよね。個人の感情や思考を形にしたものが芸術なのですから。

 

 同時に複製されるという特性を生かした分野も誕生します。それが映像作品やコミックスなどです。

 岡田斗司夫のメルマガが挿入されていますが、適当に書いたのが丸出しでおもしろい。

 自分はキュビズムは分からないけど、貞本義行の絵の方がいいや。

 ものすごく抄訳するとこうなるでしょ。

 キュビズムって、要するにその角度から見えるはずのないものを、一面に並べちゃえってやつでしょ。要するに、記号化して並べちゃったわけでしょ。

 貞本さんはよく知らないんですけど、エヴァンゲリオンとか、マクロスの原画を描いている人でしょ。要するにアニメキャラを書いている人。アニメのキャラって、記号そのものでしょ。みんながかわいいって思う平均値を使って、オリジナル要素を織り込みながらキャラクターを作るって事でしょ。だって、あんな女性いないでしょ。豊満なボディに小学生のような顔。小学生みたいなのに高校生という設定。

 分からないっていうのがよく分からない。む~ん、萌えないんですかね。ただ、コミックスのキャラクターが現在のようになったのは、キュビズム等々の抽象主義のアートが先行して存在しているが故だと思うのですが。

 で、始めの機能美の話はどっか行っちゃうし。

 まあ、ほっときましょう。

 コピーが精密になったとしても、やはり本物にはかなわないでしょう。信仰が無くなった芸術にとって必要なのは強烈な体験なのでは無いでしょうか。そのためにはよりオリジナルに近いものを経験することが必要です。現代においては美術館に行かなければオリジナルには出会えないわけです。チェコ好きさんが言うとおり、作品をシェアするようになっても、シェアした作品はやはり美術館にあるのだと思うのです。

 

 こんな話を知っていますか。

 人間が進化して獲得した能力の変遷の話です。人間は、歌うこと(音楽)を一番最初に身につけ、次に絵を描くことを身につけました。これらはたぶん何かを共有するために必要な能力です。こののちに言語を身につけます。でも、音楽も絵画も無くなっていません。言語の次の能力を獲得すると、これらの能力は無くなってしまうかもしれませんが、そうでなければ音楽も、絵を描くことも、言語で詩を書いたり、文学を書いたりする作業も残ると思うのです。映画やコミックスはこれらの発展形であり、ファインアートを否定するものではないのです。

 だから、結局今の形の芸術も残るよ、というのが結論です。しかし、今より生き残るものが少なくなるかもしれません。より高度なものしか残れないのが未来なのかもしれないですね。