今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

ジャッキー・チェン主演「酔拳」と学校の選び方、教師のなり方。

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 眠い、眠い、と言いながら一日を過ごすまさりんです。

 なかなか風邪が抜けないのです。

 さて、ここのところ、漱石の感想文を書いているのですが、これがいつ終わるのか分からない。本当は、昨日「三四郎」をアップするはずだったんですがね。もちろん、それだけすごい文章を書いている訳ではなく、どんくさいだけです。

 その空白を補填するために、今日はライトな記事を一つ並べちゃおうと思います。

 

 

  七月、八月といえば夏休み。

 大学進学率が五〇%を越える昨今、もう夏休みだからといって、四〇日を丸々遊興のために使っている人もいないでしょう。夏期講習やらに忙しく暮らしていると思います。同時に、この時期はオープンスクールなどに行っているという小中学生も多いと思います。

 そして、この時期は教員採用試験をやっている時期でしょう。

 こんな時期に理想的な教育とは何かを考えてみても良いとも思います。理想的な教育を考えるのに最適な映画を紹介したいと思います。

 「また~、ご冗談を!」と言う方もいらっしゃるでしょう。もちろん、私も冗談半分です。でもまんざら、まったくの間違いでもないのかなと思います。しばしおつきあいを。

 

 言わずと知れた、ジャッキーチェン主演の「酔拳」です。筋立てって、見たことがなくても見当が付きますよね。大体、師匠について奥義を学び、ライバルを倒す、で基礎編修了。これだけで充分ですが、もう少し詳しく書きます。

 

 フェイフォン(ジャッキー)の父親は拳法の達人。父の元で修行に励んでいます。しかし、師範代くらいではジャッキーの相手にならないくらいの腕前のフェイフォンは、もう父親の言うことすら聞かなくなっています。師範代をからかい、父親に怒られます。

 そして、街で女の子にいたずらをします。といっても、現代のロリコンが時に暴走するほど酷いものではないですよ。けれども、その場でその母親に撃退されます。諸々の出来事で機嫌が悪いフェイフォンは、ならず者をボコボコにしてしまいます。

 家に帰ると、おばさんと従姉が来ているといいます。この二人が実はいたずらした女の子とその母親でした。タイミング悪く、包帯でグルグル巻きにされた男と、その父親、用心棒がやって来ます。フェイフォンがボコボコにした連中です。この父親は街の共有地である山を占有して石炭を掘ろうと画策しています。フェイフォンの父はみんなを代表して、それに強硬に反対しています。だから、相手に弱みを握られるのが非常に困るのです。フェイフォンは父の元を追放され、父の師匠である、「赤鼻の蘇」に預けられることになります。(ちなみに、このフェイフォンという人物、後に実際、酔拳の達人になるらしい。もちろん、この映画のストーリーのような若者時代を送るわけではないのだろうが)

 

 

 

 1,師とは相手を屈服させなければならない。

 フェイフォンは、友人から「赤鼻の蘇」の修行が非常に厳しいものだと聞き、着の身着のままに父親の元を蓄電します。腹が減り、中華料理店(当たり前か)で無銭飲食をしようとします。企みがバレ、店の男衆に取り囲まれます。間一髪のところを、ある老人に助けられます。

 一緒に逃げるのですが、逃げる途中、この老人が「赤鼻の蘇」だと知ります。なんとかして倒そうとしたり、逃げようとしたりするのですが、とても敵いません。そこで仕方なく、師匠の住居に赴いて修行を開始します。

 

 学校の先生だからというだけで、尊敬されるという時代は終わりました。

 それに最近の学生は、相手が尊敬できるかどうかで、学習の習熟度に差ができると聞いています。「好き嫌い」は生理的なもの。それに思春期の生理現象をコントロールはできません。しかし、最低限威厳があって逆らえないような人物であれば、「好き嫌い」を越えて、その師から学ぼうとすることができるかも知れないと思うのです。

 それには、人間的に、能力的に、魅力がある必要があると思います。

 「赤鼻の蘇」という師匠は、いっつも酒ばかり呑んでいます。もちろん理由があるのは分かりますね。酔拳の達人になるにはそれが必要だからです。だから、表面的にはどうしようもない人物に見えます。ちょっと酒が抜けると指先が震えちゃったりしますし(^_^;)

見た目も、ジャニーズのようにいい男ではありません。どちらかといえば、風采の上がらない人物です。金を持っていそうもありません。青年実業家(死語?)のような感じもなく、フェイフォンにとって、立派な感じがするのは父親です。でも、絶対に拳法では敵わないのです。

 

 先生自身、保護者自身が勉強嫌いでは、いくら何を言っても子どもが勉強が好きになるはずがありません。最後ライバルと戦うのですが、その場に「赤鼻の蘇」は駆けつけて勝負を見届けようとします。たぶん、拳法自体が好きなのだと思います。

 

 結局、教師に最適なのは、絶対的に学習について能力が生徒より上、また誰よりも勉強が好きだという人間がなるといいです。体育の場合も同様です。体育に加えて、勉強が好きなのが良いと思います。

 

 学生にとって、こういう教師に出会えるかどうかは運次第です。学校全体を見回しても、すごいと思える教師が一人もいないということもあります。いない場合、

 

 2,何かを極めるのはきつい練習があるから。

 「赤鼻の蘇」は、フェイフォンを屈服させた後、厳しい基礎練習を繰り返させます。師匠とフェイフォンの腕と腕、足首と足首を繋ぎ、師匠が引きずり回すことで、受け身を身体に仕込ませます。四つの大甕の上に乗り、右から左、後ろから前と甕のなかにある水を桶で移させます。フェイフォンをして「こんな練習意味があるのか」と思わせます。

 

 なんでもそうですが、基礎基本の徹底はキツいし、やりたくない作業です。しかし、これをやらないと伸びない。それをやらすには、逃げられない環境と師匠に対する尊敬が必要なのです。

 

 3,お手本を示す。

 

 やがて、キツい練習からか、フェイフォンは逃げだそうと画策します。そして、ある日逃げることに成功します。大甕の訓練のときに甕に落ちて溺れたふりをして、師匠を甕のなかに引きずり込みます。その隙に逃げるのです。

 破れ屋敷の庭で服を乾かしています。そこに、イェン・ティエシンがやってきます。そこはイェンのねぐらだったのです。「そこをどけ」というイェンと売り言葉に買い言葉で喧嘩をします。フェイフォンは敗れてしまいます。

 挫折したフェイフォンは師匠の元に戻ります。

 復讐のためか、いやもっと強くなりたいからか、師匠の元に返ったわけです。もう、拳法を師匠に教わるしか強くなりようがなかったのです。

 挫折をしてから、もちろん基礎的な練習をするのですが、師匠はお手本を示す機会が増えます。型を憶えるために、お互いの身体をくくって教えたり、指の力だけでクルミを割ったりします。ときには遊びに行こうと言われ、賭場で観察眼を見せます。茶碗が三つ、そのうち一つに硬貨を入れ、シャッフルし、どこへ入っているかを当てさせる賭けです。イカサマも含めて、師匠はすべてを当てて見せます。こうしてフェイフォンの尊敬を勝ち取るのと同時に、お手本を示すのです。(やがて、これが大騒動に繋がるのですが)

 

 すべての教科はお手本が必要です。要らないのは、基礎基本の部分です。あれは教えようがないのです。さらに上級のことを教わるには、優秀な師匠に教わるしかない。

 よい授業というのは、やり方を教えているものです。勉強のやり方、テストの解き方、など(学校教育だと試験対策だけではないですよ)を教えているものです。勉強のやり方は、実際に学校から帰って復讐で授業と同じことが再現できるようになっているのが、いい授業です。テストも同様です。そのやりかたをお手本でみせられているのがいい授業です。

 

 4,自分で応用できるようにする。

 やがて、免許皆伝。晴れて酔拳を師匠から教わります。

 そして、街の共有地となっている山を狙う一族が雇った殺し屋とフェイフォンは対決します。その殺し屋がイェンです。

 彼は師匠も見守るなか、酔拳を駆使して戦います。始め優勢なのですが、やがて劣勢になります。技が破られていくのです。しかも、「これ気持ち悪い」とまじめに練習しなかった技ができないせいで、劣勢になってしまうのです。

 しかも、イェンが「目くらましの拳」という、相手の目の前で手をファサファサするだけの技のせいで劣勢なります。もともと、足技が得意だったという設定がすっとんでいるのはご愛敬。その対決に居合わせた師匠のアドバイスも大雑把になります。八聖人の技を完璧にしてこその酔拳です。だけど、フェイフォンは七人分しか憶えていない。師匠は「七人分を合わせて、大技を繰り出せ」という無茶なアドバイスをするのです。窮してしまったフェイフォンはオリジナルの技を繰り出します。

 劣勢を跳ね返すために、フェイフォンは自己流の酔拳を繰り出して勝つのです。

 

 学習で必要なのは工夫することです。つまり自己流。

 特に予備校に行くと分かるのですが、先生によってニュアンスが違う。それを組み合わせて、自己流の学習方法を作るというもときには大切です。そこで、「私のやり方以外でやるな」というくくりをつける先生はいただけません。ベテランの先生にはたまにそういう人がいます。工夫をし続けていくことが学習の質を高めていくのだと思います。失礼ですが、子どもによっては、「工夫の仕方」まで教えなければならない可能性があります。ほぼ不可能ですが。だって、工夫は同世代との競争のなかでやり方を知るのですから。遊びのなかの工夫とはずるさなんですね。

 とにかく、大学生となり、社会人となる以上、工夫ができる必要があります。最終的に工夫を学ぶことで始めてオリジナリティを作れる人間になるのです。自分も含めて、ほとんどの人ができないですけどね。

 

 さあ、冗談半分で教育について書いてきました。ここで挙げた、「生徒を暴力的な意味ではなく、本当に屈服させる先生」「基礎基本を徹底させる」「手本を示す」「工夫すること」が学べる学校を選べば、将来は安泰です。そりゃそうですよね。

 ただ、学校に入った後の話ですが、この四つの過程を通っていない先生というのは、よおくみているとすぐ見抜けますよ。そういう先生は信用しない方が良いですよ。

 

 

 

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