こんばんは。まさりんです。
今日やっている「アメトーーーーーーーーーーク」スペシャルを見ながら書いています。出川と狩野です。おもしろいですよね。パクりたくなる芸人はあまり収穫がなかったように感じました。運動音痴は相変わらずおもしろいです。
さて、今回は「第一六回 短編小説の集い」振り返りをしてみます。今年のイベントは今年のうちに書いてしまいましょう。
前回の短編小説の総振り返りでも書きましたが、「九月一日」という作品を書いたときに、その主要人物であるシンイチはもう一度出さなきゃな、と思っていました。何も解決しない展開になってしまい、それが自分のなかでも後味の悪いものとなってしまったからです。
はじめに考えたのは、ケンジは会社を辞めたという話を書いたのですが、その後どうやって生計を立てるのかという観点から考え始めました。そうすると、寺子屋を書いた絵がありますね。先生が鎮座していて、周りに子どもたちが各々自由に文机を並べている絵です。よく近代の学校の教室と比べられる絵ですね。近代の教室では、机は教壇に向かって整然と並べられるのに、近代以前は自由に並べられている。この点に教育制度の差がある、ってやつです。そこにシンイチをぶち込んでやれと。
もともとケンジという人は働かなくていい人です。経済的にはね。イメージとしては、不動産投資をしていて、そこからの上がりで十分に食っていける。しかも、実家が農家なので、食べるものにも困らない。そういう人を念頭に置いています。ただ、それでよしとしない人物です。
シンイチは学校での折り合いが悪くなってから、当然母親との関係も冷めたものになっていきます。それでも優しい母親というのは、物理的にも精神的にも余裕がある母親で、そうではないことが多いシングルマザーではそうなることも少ないだろうと想像しました。母親も人間ですから、通常と同じ情動をします。一人で食事も排泄もままならない自分なら別でしょうけど。母性というのは、備わっている人とそうでない人がいて、備わっている人でも条件次第では発動しないものなのだと思います。
そうすると、若者には居場所が必要になります。それがときには暴走族だったりするわけです。ただ、シンイチという人にはそれは似合わないような気がします。
そんなこんなを思い合わせるとあのような展開になったのです。家族として受け入れられているという事実が、シンイチにとっての居場所の証明なのです。あそこにシホがいないのは、母上様とシホの折り合いが悪いからです。
こんごどういう展開になるかは、私にもわかりません。こうしようという予定はないのです。私自身がとても楽しみです。