まさりんです。
短編小説の集いに参加します。
主催者様。前回は感想を休ませていただきました。今回も休むかもしれませんね。
よろしくお願いします。
「ミッドナイト・ランブラー」
「ねえ靴どこ」
私の背中に突っ伏しながら、女は言った。ほとんど寝言のような大きさで。
「またかよ」
私も適当に返事した。女は酔うとしばしば靴を無くした。私が会うときは、だいたいその辺の店で買い与えてしまう。
私が居ないときはどうするの?
そういうときは裸足で帰るの。
二人で過ごしたホテルから駅に向かう坂を、女を負ぶって歩く羽目になった。もうタクシーを呼んで、酔ってだらしない女をタクシーに押し込んで、タクシーで帰ろうと思ったのだが、「駅までおんぶして」とだだをこねた。
坂の左右はホテルが林立していた。どこでもよかったのだが、すでに酔っていた女が「あそこ」と指さしたのが坂の一番上のホテルだった。千鳥足を抱えるように支えて、なんとかホテルまでたどり着いた。ロビーの自動ドアを開けると、電光掲示板があった。掲示板の前にはカップルが立っていた。ボタンを押すと鍵が出てくる仕組みになっていた。カップルは和気あいあいと話し合って部屋を選んでいた。
一方の私たちは、女のほうがへべれけだった。「どこでもいいか」と聞くと、だらりと頭を垂れた。そうなのか、そうでないのかが分からなかった。どこもなにも、三階の部屋が二部屋だけしか空いておらず、先に選んでいたカップルの男が丸いボタンを押すのを待って、空いている部屋のボタンを押した。
エレベーターは小さく、先にカップルを上げてから、我々も乗った。
部屋の前で、右手で女を支えて、左手で鍵を開ける。鍵にはプラスチックの細長いものが付いていた。
部屋に入り、ベッドに女を投げ出す。
「おいで、かわいがってあげる」
とふざけて言って、ふふふふ、といたずらっぽく笑った。
「ションベンしてくるよ」
「早くね」と後ろからの声を聞きながら、トイレに行った。浴室に入ると、右側に扉のない洋式便器があり、左手に浴室がある。正面には洗面所がある。総じて、白い。
便器の蓋と便座を上げて、放尿した。全身の力が抜けた。コックをひねり水を流す。洗面台で手を洗い、備え付けのタオルで手を拭く。
ドアを開けて、ベッドに戻ると、女は高いびきで寝ていた。
女はサチエと言う。
バーという看板を出している、実質スナックで出会った。
ゴールデン・ウィークが終わってすぐくらいの妙に暑い日だった。外を歩いただけで、頭にじっとりと汗をかいた。夕方になってビールが呑みたくなった。
知り合いに連れられて、この店に初めて来た。小さな店で、入るとカウンターと、壁に沿ってずっとソファがある、四人がけの席が三つあった。
カウンターのもう少し手前の席に座った。知り合いはクラタという名前だった。
クラタは以前は同じ職場だった。男同士なんて不思議なもので、働いているときには利害が先行して、なかなか仲良くなれなかった。
一年前のやはり春だったと思う。仕事帰りのクラタとばったりと出会った。
「おお、イトウさん」
「どうも、クラタさん」
他の人とも出会ったことがあったのだけれども、クラタだけが無かったことにしなかった。それがとてもうれしかった。そのまま、駅前の海鮮居酒屋に入って呑んだ。
それから月一回くらい、定期的に呑むことになった。オヤジ同士であるのだが、呑もうという連絡がラインで入ってきた。クラタの仕事、つまり私の前職はあまり夜遅くなる仕事ではないので、クラタのほうが私の仕事に合わせてくれた。
席について、二人は水割りを頼んだ。もう二軒目なので、まあまあ酔っていた。
店内の四人がけの席はみな埋まっていた。少ないながらも、四人がけの席にはホステスがついていた。歳は三〇を過ぎている女性が席に一人ずついる。
クラタがメビウスに火を点けた。
「あそこ、まだ吸えるんだっけ」
「だめですよ。だから気を使っちゃってしょうがないですよぉ。みんなコソコソ吸っちゃって。イトウさん吸わなかったっけ」
「いや辞めたんだ」
「禁煙外来行ったの」
「どこにそんな金あるんだよ」
「そうっすよね」
後ろでは年末の天皇賞の話題で盛り上がっている。
「根性だよ」
「禁煙大変ですよね。その根性を働いているときに出せればね」
クラタの顔を見ると明らかに酔っていた。ロレツがまわらない上に、顔が前後にカクカク揺れていた。
「だからクビになっちゃうんですよ。あ、ちがうか、一生懸命になりすぎたのか」
前職で私は暴力を振るってしまった。相手が明らかに卑怯なまねをしたのだが、もちろんそんな言い訳が通るはずもない。円満退職という形をとった解雇であった。
クラタはケタケタ笑っていた。思い出した。そうだ。コイツはこういうヤツだった。女性うけがよいのであるが、裏ではこういう一面を見せた。イヤなヤツだった。ようするにからかいたくて私につきあっていたのだ。私が気を許すのを待って、クラタは急所を一突きにしたかったのだ。
それが今夜だったのだ。
「なんで撲っちゃったの。あれくらいのことで。普通ガマンできるでしょう。失礼だから。ヤンキーじゃ無いんだから。イライラするんだったら、スポーツすればいいんですよ。汗流せばすっきりしますよ」
今からやって、このイライラを解消できるんだろうか。もしかすると、コイツ酔ったふりをしているのかもしれない。水割りを一気に飲んで、お代わりを頼んだ。
コイツのイヤなところは、じゃあお前はどうなのってとこだ。仕事が大してできるわけではない。要するに上の覚えがめでたいのだ。私もいささか酒が頭を浸してきたらしい。
「お前だって、失敗が無いわけじゃない」
「でも撲ったわけじゃないですよ」
不思議なもので、職場での力関係から抜け出せない。学生のころもそうだが、社会人になっても同じらしい。本当は反論がしたいのにできなかった。クラタの冒したミスのほうが重大なものだったが、上司がもみ消した。
空気が一気に硬化した。
後ろの四人がけの席ではやはり、客とホステスが騒いでいた。カウンターの中年二人の空気なんざ知ったことではないという感じだった。
「うるせえなあ」
鍵型に曲がったカウンターの奥で突っ伏していた女がムクリと身を起こした。背中の半ばまでかかるような長い髪の女だった。濃い化粧をしていた。年齢は三〇代半ばになるかならないか。薄いピンク色のワンピースを着ていた。女の見た目からすると、ちょっと派手な服だと思った。細身でスタイルがいいので、似合っていないとは思わないが。
「どっちでもいいよ。そのクビになったおっさん。なんか酒飲ませろよ」
クラタは、ウハハと大声で笑って、「救われました」と女に言って席を立った。立ち上がった瞬間、上からものすごい形相で私を見下ろした。「もう少し遊ぼうと思ったんだけどな。二度と電話してくるなよ」と言った。バーテンに「お会計」と言って、入り口のレジの方へ歩こうとする。おごってくれようとしているのが分かって、「いいよ」と腕を引っ張ると、「負け犬に金払わせるほど落ちぶれてねえよ」ともう二度とこちらを見ないで、会計を済ませて店を出て行った。私と女は見送った。
「感じ悪いね、アイツ」
ぐでんぐでんであごを手で支えていた。
クラタが出て行った後革靴を忘れていったことに気づいた。取りに帰ってきたら笑ってやろうと思って、飲みながら待った。うるさいから女にも酒を振る舞った。
私と女は三杯目の乾杯をしていた。
「おじさん、負け犬なの」
クラタは知らない。私は宅建を持っていた。それに株式投資もやっていた。クビになった数年前にはアベノミクスの恩恵でマンションバブルが起きており、収入も実は前職より多くなった。女にそう言うと、
「じゃあ前の会社はブラック企業ってやつなのね」と言った。私が注文した水割りのグラスを持っていた。
「ブラック企業じゃない日本企業なんてないよ。その環境で労働者が働いているから、日本は世界第三位の経済大国なのさ」
「誰が決めたの、そんなの。うちの患者さんだって、そんな金持ちほとんどいないよ」
「おねえさん、どこで働いてるの」
「あそこの病院」グラスを置いて、女は厚い木のカウンターの突っ伏した。
「おねえさん、あそこじゃ分からないよ」
「市民病院だよ。そっから、イヤミだよ、『おねえさん』っての」
酔ってるからいいやと思って、実年齢を聞いて、驚いてしまった。四〇を少し出たくらいだった。若い。市民病院の看護師だった。看護師は普段の生活は派手になりがちだと聞いていたが、本当だった。
妻もいなくなった我が家に帰る気にならず、サチエとそのまま時間を過ごした。サチエにはシンイチという息子がいるらしい。「心配するだろう」と私は思った。が詳しく聞くと、もともと看護師として働いているから、物理的な接点がなく、なんとなく母親に懐かなく、深夜に母親が徘徊していても興味を持っていないのだそうだ。
酒を飲ませろ、飲ませろ、とうるさいので、どうしてそんなに飲みたいのかと聞いた。男に振られたのだそうだ。市民病院とはいえ、大学病院の直轄であり、そこのインターンとつきあっていたらしい。
「連絡取れなくなっちゃったの。好き勝手やっておいて」
「向こうはつきあってるつもりなかったんじゃないの」
「んなことあるかーい」
とカウンターに突っ伏したまま、横に座る私の後頭部をはたいた。
「今日みたいにね、悲しくて飲んでたら、先生が来たの。で、先生としっぽりとね、わかるでしょ」とにやにやしながら言った。
そこまで言って照れる神経がわからない。
が、とにかく肉体関係を持ったのだろう。
「きっと女ができたんだ」
「クビになったのかもよ」
「どないやねん」と大阪人が聞いたらキレるレベルの大阪弁で突っ込んだ。
ねえ、私の靴知らない?
お互いやけくそになっていたという理由もあるが、この夜、私たちは肉体関係を持った。ちなみに、サチエはインターンと別れたようだ。「別れた」という表現をサチエは使ったが、もともと将来を嘱望されているインターンが、子持ち四十女と真剣につきあうはずがない。
私たちが会うときはいつもサチエのペースだった。
サチエが呼び出して、私が予定を合わせる。
看護師という多忙な職業だということもあった。
サチエは会うとき、いつも酔っていた。きっと悲しいからなのだろうけれども、悲しい話を聞かされて、それを消化できるほど私も幸福では無かった。仲が良かった患者が死んだり、息子が離れていったり、そんな話を消化するには自分自身が無責任なほど幸福である必要があるのだ。
そんな事実とぶつかったとき、「世界第三位なのにな」という文言がいつも頭に浮かんだ。いったい、誰が幸福な生活を送っているんだろう、とその都度思った。
それにしても今日の酔いはひどかった。
ホテルに行ったけど関係を持たなかった夜、こんな夜は初めてだった。
ホテルを後にして、私はサチエを負ぶって、駅へと向かっていた。
一刻も早く帰りたかった。女はホテルに靴を忘れてきたらしい。
坂の両脇には、平坦な道が走り、両脇はホテル街になっていた。ホテル街はカップルが沢山いた。が、たまに学生カップルがいたが、ほとんどのカップルは関係性が不明だった。私たちと一緒だ。
長い長い坂をゆっくりと降りてゆく。サチエが靴を無くし、負ぶって歩く途中、きっとクラタも悲しいことがあったのだと気づいた。それで八つ当たりしたんだ。人はきっと悲しいと靴を無くすんだ。そう思ったらおかしくなった。あれ以来、クラタは電話してこなかった。アイツはまた勘違いしている。私から電話したことはない。頭が良いと勝手に勘違いしている人間ほど滑稽なものはない。
鼻で笑っている私に、サチエの突っ込みはなかった。人の背中でよく熟睡できるよ。子供じゃあるまいし。緑色のペイントをしたタクシーがひっきりなしに脇を通り過ぎてゆく。ホテル街を作って稼ごうと思った人間は尊敬した方がいいのか、軽蔑した方が良いのか。風俗街と比べたら、上なのか、下なのか。ピンク、青、赤、緑、黄色、様々な色の電飾が瞬くのを見ながら、変なことを考えていた。
坂の中腹にさしかかったとき、背中が温かくなった。
あ、と驚いてサチエの股間が当たっていた背中辺りを触ると、じっとりとぬれていた。
やりやがった。オレは下の処理なんてできないぞ。
やけくそなのはいいけれど、もうそろそろ潮時だと思った。
息子が居ても知ったことではない、と思っていたが、そろそろ日常の重力に身体が負けそうだった。
面倒になるのはいやだ。
――了――〈四九九二文字〉←Word調べ。