まさりんです。
なんとなく、SMAPの「vest」を聞いている。いま四十歳辺りの年齢の人間にとって、「夜空ノムコウ」は思い入れがある曲だという人も多いと思う。リアルタイムの同年代としてあの曲を聴いた時の衝撃はなかった。同年代の思いが詰まっていたからだ。日本社会が下降していった時期、「こんなはずじゃなかった」という思いを、多くの若者が抱いていた。下降しきった日本に暮らす、今の若者は抱いているのかどうか。
夜の歩道橋に五人がたたずんで歌うというPVも音を聞くとすぐに思い出す。
憂鬱な理由
どうして憂鬱かって、やっぱり「SMAP×SMAP」の最終回があったからだ。
解散間近だっていうのに、そして最後のテレビ出演になりそうだというのに、本人たち不在で総集編で終わっていったという衝撃。寂寥感がありすぎた。それだけ根が深い確執があるのか、それともグループ存続に向けて、他の動きがあるのか。だから、本人たちの口から、「最後です」と言わせたくないのか。一縷の望みをかけて、裏で何かがうごめいているのか。そう、想像させる。
結局は何事もなく、年末年始の雑多のなか、噂は消えていくのかもしれない。案外本人たちはさばさばとしていて。
ジャニーズのダメージ。
朝からSMAP解散一色だった。
街を歩くと、コンビニの新聞ラックに立てられたスポーツ新聞の見出しも、SMAPという文言が踊っていた。ネット上もそうだろう。見てないが、YouTubeを見れば、SMAP関連動画がたくさんあがっているだろう。
昨日の最終回は途中までしか見なかった。寂しい気分になってしまったからだ。見ながら、SMAPがいなくなってしまったら、いったいジャニーズはどうなってしまうのだろうと考えた。
SMAPの次の稼ぎ頭は嵐なのだろう。しかし、嵐に多くの国民が知っているという良い曲がない。SMAPには「夜空ノムコウ」、「世界に一つだけの花」という歌えないにせよ、お年寄りから子供まで知っている良曲がある。が、嵐にはそれがない。だって、私が知らないくらいだもの。
アイドルと標榜する以上、やはり皆の知るヒット曲と一緒に記憶される。近藤真彦でも、田原俊彦でも、松田聖子でも、小泉今日子でも、みなそうである。おのおの、曲に違いがあるかもしれないが、曲と共に記憶されるのは一緒である。
SMAPに関して、私は別に長年ファンで追いかけてきたわけではない。それなのに、有名曲は知っている。この影響力の差は案外大きい。同じことは関ジャニ∞などにも当てはまる。ファンや若い人だけが知っているだけではだめだ。それでは少なくともSMAPを抜くまでには至らない。
そのすばらしい影響力を持つまでに至ったグループを、育て上げた人間はジャニーズは手放してしまった。巷の噂によれば、そういうことになっている。
もしかするとこの流れでジャニーズ事務所自体が衰退していってしまうような気がする。
本当はジャニーさん一族は「君臨すれども統治せず」の精神でいるのが一番だった。つまり、SMAPを育てた飯島女史だっけ? のように優秀な番頭さんに経営は預け、事務所を所有するという形が一番理想的だった。結局ジャニー喜多川に関してもマネージメント力がないということを、今回の騒動で露呈させてしまった。
二〇一六年はエンタメ界だけでなく、政治でも、多くの事柄にとって、岐路となった一年なのかもしれない。岐路の向こうにある二〇一七年は靄がかかっていて、本当にどうなるのか見えない。
年初になると、「激動の〇〇年」的な文言が踊る。そうやって、節目だと煽る、常套句になっている。しかし、来年は、本当に激動の一年になるのかもしれない。
本物になるということ。
以前、映画「stand by me」の感想を書いたとき、同じようなことを書いたのだが、男の子は思春期あたりに、小集団を形成して、様々なことを学ぶという習性があるようだ。その集団はどうも学校のクラスではだめらしい。ある程度、大人の目が届かない位置で作られた集団であることが大切だ。だから、部活動でも学校外のスポーツクラブでもだめだ。もちろん、そこで出会った結果、そういう大人の目から一定距離離れた集団が形成されれば良いのであるが。
その集団は、時にとんでもない過ちを犯してしまうことがある。いじめもするだろうし、犯罪も犯す。それゆえに少年法のような、一定猶予を少年に与える法律が必要なのだ。もちろん、殺人などあまりにもひどい犯罪の場合は、猶予など必要ない。
そういったことも含めて、少年のグループには魅力がある。そこで何か、才能の融合が起こっているような輝きがあるのだろう。
集団で多くを学んで、少年はいずれ、いっぱしの人材になる。いっぱしの人材になる前の可能性を人々は彼らに見る。アイドルというのはそういう時期の魅力が詰まっているから、人々の目に美しく映る。女性が男性アイドルグループを見てかっこいいと思うのはそういう理由だろう。
女性が集団性を学ぶ機会は不明だ。
お気づきだろうが、わざと少女を入れていない。私には思春期の少女の集団に関してはよくわからない。AKBなどのアイドルグループがそのモデルになっているように見えるが、それが女性にとって普通のことなのかはわからない。
少し前に、少女マンガの話を妻としていて、そういう話になった。
男にとっては上記のような成長モデルが男性マンガで示されている。「仲間と協力しあって、強敵と戦う」というものだ。オチとして、「協力しあっているようで、最後は主人公が持って行く」というのがあるが、それは置いておいて。
女性マンガのイメージは結局、「プリマドンナを巡って、女性同士があらゆる手を使って戦う」というのがモデルであるように私には見える。それでいいか、と妻に聞いたら、「そうかもしれない」という答えが返ってきた。つまり、(あくまで私の推測が正しければ)集団で協力するというモデルが女性にない。マンガでも良いけど、もしも若い女性向けに作品を作るなら、「集団でどう協力しあうか、女性のロールモデル」を作ると良いのかもしれない。
アイドルのハードル
話を戻すが、アイドルというのはいっぱしの人に成る前の猶予期間に存在するものだ。SMAPはその年齢を引き上げたという功績がある。個人的には、彼らは一生こんな感じだと思っていた。メンバーが死ぬ時期までこれは続くのだと。それは実は可能性を模索しなければならない、模索してもいい期間が延長されることを象徴している。だが、おそらく彼らにとっても意外な形で、そのモラトリアム期間は終止符を打った。
しかし、猶予期間である「アイドル=若者期」は、逆に言えば、ハードルの下げられた時期でもある。役者としても、歌い手としても、「アイドルだ」ということでハードルが下がる。アイドルを止めれば、途端にハードルは上がる。AKBの前田敦子を見ていればわかるだろう。アイドルグループを辞めて、生き残る可能性は実に少ない。それは辞めた途端ハードルが上がるからだ。
それをわかっていて、五人は終止符を打ったのだと思う。その覚悟たるや、ちょっとまねできない。
普通の人の動揺
普通の人とは、ファンではない人だ。
ブログなどで、その雑感を挙げる人々がいるのだが、どうも心を乱している人が多い。それくらい、寂しい最終回だった。
ファンの方も感慨ひとしおであるようで。
テレビはどうなるのだろう。
(以上の皆様、勝手にリンクを張りました。良い記事ありがとうございます)
なかには「解散してよかった」とファンが聞いたら発狂しそうなことを書いている人もいた。が、きっとその人はそう思いたいんだと思う。そう考えないと寂しいのだろう。そんなみなさんの反応を見て安心した。なにせ、うちの妻ときたら、何も動揺していないのだから、自分の方が間違っている気になるのである。
個人的には東日本大震災の辺りはちょっと泣きそうになった。完全に感覚がよみがえってしまった。ほぼ同世代なのに、自分はなんもできなかったと、妙な無力感が去来した。
買い物に行ったとき、CDショップの前を通った。独りの男性が店頭に陳列され、プロモーションビデオの流れるSMAPのベストをじっと見ていた。買うか迷っているのだろう。この際だから、買っちゃいなよ、と背中をたたきたくなった。