今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

第二十七回 短編小説の集い参加作「アイアン・マン~青春の終わり」

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 まさりんです。

 そうですか。しかたないね。

 主催者様、おとりはからいよろしくお願いします。

 

novelcluster.hatenablog.jp

 

「アイアン・マン~青春の終わり」

   私のベッドは病室の入り口側にあった。
 病室には三床のペッドが横に並べられている。見舞いに来た親戚が「狭いね」とか、「公立だから仕方ないね」と言っていたので、きっと私立の病院に比べても狭いのだろう。
 ベッドに寝転んだまま見上げると、二本ひと組の蛍光灯が二組ついている。昼間でも電灯をつけなくてはいけないくらい、部屋は暗い。
 病院は昔城下町だった町のはずれにあった。背後は少しだけ高い丘になっていて、丘の上は雑木林になっていた。雑木林のせいで我々のいる病室はすでに暗かった。
 入院してからすでに二ヶ月が経過していた。
 入院してすぐ、鼻から太いゴムのチューブを差し込まれた。点滴も腕の血管ではなく、鎖骨の下の静脈に太い針を刺して行われた。水も食べ物も入れてはならない、ということになった。
 検査は遅々として進まなかった。患者の方としては、「どんどん進めばいいのに」と思うのだが、混んでいるのか、検査は週に一回あればいい方だった。
 それでも、この病院で行うことのできる検査は終わったようだった。後は結果を待つのみだった。とはいっても、悪い結果であることはわかりきっていた。
 病状はかなり前から自覚していた。自身の実家の窮状もあって、なかなか病院へは行けなかった。実際に「病院に行く」と母親に告げて、喧嘩になったこともある。全身を病が虫食んでいくのに、友人たちと飲み、深夜バイトにもいそしんだ。
 どこかで、「どうにでもなれ」、と無責任になっていた。自分の体をおおってゆく、痛みや苦しみを、どこかで無視することができた。自分から病を突き放すことができた。苦痛を無視することができたのも若さのおかげだろう。よく考えるのだが、それと同時に自分に対して大人が、がまん強くなるようにしつけてきたような気がした。
 狭く暗いベッドに横たわって、午前中は何も検査がなければ読書をして過ごした。それも毎日だと飽きる。そうすると、CDを聴きながら、無駄に様々なことを考えた。
 鼻のチューブは腸から、汚物を吸い上げ、ベッドの脇に置かれた大きな三角フラスコへ運ぶ。たまに、空気が抜けるコポリという音がする。たぶん私にしか聞こえない音だ。
 午後になると、ラウンジに行く。病室のうす暗さに耐え切れなくなるのだ。また生活にパターンを作った方が、一日が早く過ぎる。食事がない生活をしていたので、生活パターンが作りにくかった。入院してから、一、二週間過ぎて気付いた。ラウンジはガラスが多く、しかも田園地帯に面していたので、とても明るかった。ラウンジで数時間勉強した。一応将来に備えて、資格取得を目指して勉強していた。が、むだだろうという直感はあった。就職しても、ひと所に長く勤められる体ではないだろうと思った。
 ラウンジには四人がけのテーブルが六セットあって、テーブルの向う、一番窓際にはテレビが置いてあった。テレビは点けっ放しで、一番近いテーブルに黄色い花柄のパジャマを着た老女が座っていた。肩から、黄緑色のカーディガンを羽織っていた。白髪交じりの長い髪で、膝の上にきちんと手をそろえていて、シャンと背を伸ばして座っていた。傍らには銀色の点滴台が佇立していた。後ろから見ていると、視線がはっきりとはわからないが、テレビを見ているようで、その向こうを見ているようでもあった。テレビのなかでは昼の生番組をやっていたがゲストの女優が見当違いな事を言って、周囲を笑わせているようだった。私も面白くなかったし、老女もなにも反応しなかった。
 資格勉強のテキストを広げて、私は電卓をたたき続けてきた。視界の隅に老女がチラチラしていて、完全には集中できない。
 二時間ぐらいだったろうか。老女にとらわれつつ、テキストに集中していた私は、肩を叩かれて、母がやってきたことに気づいた。パートで働いたあと、見舞いにやってきたのだ。テーブルに広げたテキストとノートの上に、母は朝日新聞をどさりといた。私は小さくため息をついた。
 新聞は朝買っていた。
 割烹着を着たおばあさんが、各病室を回って、新聞を売りにやってくる。そのおばあさんから日経新聞と日刊スポーツを買う。なぜか、日刊スポーツはHな記事のあたりが抜かれていた。入院生活について、看護師や医師から教わることは案外少なく、ほかの患者の様子をうかがってまねる。ふろに入るタイミングすら誰も教えてくれず、入院から一週間以上放置され、清拭すらされなかった。全身のかゆみに耐えられなくなって、看護師に尋ねると、「忘れてた」と看護師に笑われた。それでも患者は怒れない。生殺与奪は相手に握られている。新聞を買うことも他の患者が買っているのをまねた。そうして買った新聞を、午前中に読むので強いて朝日を持ってきてもらう必要はなかった。
 新聞を自分で買うようになって、母に必要ない旨を伝えた。
 ーーヒマかと思って。
 母ははにかんでいた。結局、朝日新聞を毎日持ってきた。
 「ヒマつぶしに」というのも嘘ではないが、どこかで息子が世捨て人のようになってしまわないか、と不安に思っていたのかもしれない。
 母の不安は周回遅れだった。
 一ヶ月以上も世間から隔離され、絶食させられ、鼻から妙な管を入れられれば、誰だって生きる気力などを失せる。希望などなくなる。病気を治すため、というのはわかるけれども、治ったところでその先に何かがあるとは思えなかった。
 母は私の正面にすわった。
 それから延々と話し始めた。話の内容は、父と金の話、つまりは愚痴だった。
 ——自分たちのことを忘れないで。
 入院してるときまで、どうしてこんな愚痴を聞かなければならないのか、と呆れながら夢中で話す母を見ていた。なぜか存在を誇示されている感じがした。同時に自分が何者か、得体のしれない何かになりつつあるような気がした。母は必死にそれを止めようとしていた。
 気付くと母の口は声高になっていたらしい。
 ガタン!
 という音がした。母は、全身をビクンと震わせて、後ろを振り返った。私は母の向こうを注視した。
 テレビの前のテーブルにいった老女が佇んでいた。足元の紫色の化繊の毛の短い絨毯に、黄緑色のカーディガンが落ちていた。
 いつの間にか、日は翳りかけ、日の光がラウンジをオレンジ色に染めていた。老女は年齢の割に背が高い印象を受けた。
 ――どうしてアタシばかり我慢しなきゃいけないの!
 ラウンジには我々と老女しかいなかった。我々はその絶叫で一瞬凍りついた。
 老女はそのまま歩きだした。しかし、点滴台を持っておらず、腕につながる透明のチューブで点滴を引きずった。しかし、点滴台がついて行けず、転倒した。周囲に派手な音が響いた。老女がそのまま歩くものだから、点滴の針が抜けた。胸から血が垂れ、絨毯に血の黒いしみが点々と続いた。
 全身をこわばらせている母に何かを期待しても無駄なので、自分で誰かを呼ぼうと立ち上がりかけたころに、看護師が現れた。
 いつ買ったの? と聞きたくなるような古めかしい銀縁の眼鏡をかけていた。美人なのだが、少し生まじめで、一見きつそうに見える看護師だった。この看護師には以前、全裸を見られたことがあった。その時の恥かしい気分がよみがえった。
 看護師はとりあえず老女が歩くのをやめさせたかったが、老女はそれを振り切って歩きつづけた。仕方ないといった感じで素早く点滴台を持ち上げ、カーディガンを拾い、老女の脇に走り寄った。点滴が漏れないように、滴下する部分の下の栓を閉めた。老女の血のしたたっている腕のあたりを持った。止血しているのだろう。そのまま二人はラウンジから消えていった。
 ――ビックリした。
 母は苦笑いをした。
 私は立ち去る老女を見て思った。
 ヤツはアイアン・マンだ。
 もうすぐ私もヤツみたいになれるんだ。

 やがて母も去り、絶食の私には地獄の夕食の時間も過ぎた。食べ物の匂いに耐えなければならない。入院生活もひと月が経つころには、だんだん食欲もなくなってくる。食欲も習慣なので、習慣が消失すると欲求もなくなる。点滴をしていても、習慣が抜けないころには、きちんと空腹を感じる。夕方の刺激があったからか、今晩は無性に食欲があった。
 夕飯が終わり、消灯になる 九時までの間に、主治医がやってくる。
 外科部長を先頭に、主治医、若手の医師二人が病室に入ってきた。奥のペットから様子を見て回って、私のベッドの前にやってきた。蛍光灯の青白い光は弱々しく、病室は暗く冷たかった。四人の医師の顔もやつれて見える。手術終わりらしく、四人とも青い手術着を着ていた。
 主治医が私の体の様子を聞いた。入院してふた月も経てば、安定して何も変化はない。
 「そういえば、まだ病名のことを話していなかったね」
 と、黒縁眼鏡をかけた若手の医師が言った。ベッドの足下の柵に肘をついて上半身を凭れかけていた。
 「まだ確定という訳じゃないんだけど――病を疑っています」
 「――病?」
 と私は訊き返した。
 「知らないよね」
 といって、医師はにっこりと笑い、小首をかしげた。何だか馬鹿にされたような気がした。
 「手術をして、検体をとって、それを検査にまわしてみないと、何とも言えないんだけどね」
 知らないところで、手術は決定しているようだ。
 「それってどういう病気なんですか」
 若い医師はざっと病気について説明した。
 寛解と活動期を繰り返すこと、短期間に再発する確率が高いこと。
 ――全て無駄だ。
 自分がこれまでやってきたことの全てが水泡に帰したと思った。
 昔、小学生の中学年に、ガンプラが周囲の子どもにはやっていて、ゴッグのプラモデルを作っていたのだが、なかなかうまく出来ず、母親と弟にさんざんからかわれたときのことを思い出した。何度も接着剤を使うのだが、部品がうまく付かず、悪戦苦闘しているところを、「ぶきっちょ」と散々からかわれた。それでも、途中で投げ出さずに、最後まで作り上げた。子どもなら投げ出しても良いのだが、そういう風に融通が利かないところがあった。そうやって子どもは我慢強くなっていくのだろうが、我慢強くなってもいいことなんてまるでなかった。もっと軽妙に生きた方が、人生楽しいに決まっている。
 そうやってからかったりしてきたくせに、母親は私を頼っているようだった。家庭や親族間のトラブルには、ちょくちょくかり出された。人間関係のバランスも、我慢強く取ってきた。自分だって、勝手気ままに生きてきたのに違いないが、自分以外の人間ばかりがわがままに生きているように見えた。それが羨ましかった。
 母親の愚痴も、友人の愚痴も、我慢強く聞いた。
 ――おまえはなんで愚痴らないの? 
 ――おまえは腹割らないよね、ホントに。
 とか言われることもままあった。
 ――なんでかって、愚痴聞くのが苦痛だからだよ。
 とは言えなかった。
 医師の説明は途中から、頭に入ってこなかった。
 ――要するに君の人生は終わりだ。
 そのメッセージが聞ければ、それ以上何も必要なかった。
 寂しいとか、余計なことは考えないようにしていた。ただ、一日のルーティンをこなすことだけを考えていた。
 目の前の若い医師は、にこやかに残酷なことを語っていた。
 ただ、相手を傷つけまいと、「要するに君の人生は終わりだ」という直接的な言葉は言わなかった。
 緊張させないための笑顔だと思っているのだろう。逆に、自分だけが悲惨な目に遭っていて、その悲惨さによりそう気はないよ、という意思表示に感じた。暗い蛍光灯が若い医師の顔の陰影を際立たせた。所詮、病気になっているのは患者であって、医師ではない。その壁が出来ていくのをはっきり感じた。
 自分の内面にあった寂しいとか悲しいとか、余計な感情が自分から切り離されるのを感じた。負の感情のほとんどは人間関係から生まれる。もう、全ては私には関係のないこと。
 自分が内から変わっていく。
 私はにやけてしまった。

 

 医師が去ったあと、三十代の看護師がやってきた。
 私を励まそうと、必死に何かを語っている。医師に言われてきたのかもしれない。
 何も耳に入ってこなかった。
 私はアイアン・マン。
よみがえったのだ。
 自由になったのだ。
 救った奴らに、これからずっと同情されて生きるのさ。
裏切った者たちに復讐を誓う。
看護師に言った。
「おまえの下手な慰めなんかいらないよ。時間の無駄だ。そんなことより、しゃぶってくれないか」

ーー了ーー

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