この内容で記事を書こうと思ってから、逡巡してしまった。
はてなのトップページでブックマークの内容をチェックした。
カズオ・イシグロは男女平等の敵という内容で、「書きたくないなあ」と思いながら流し読みした。流し読みしたせいか、引用ばかりで、趣旨がまるで分からなかった。分かったのは、旧来のフェミニストの主張が、自己の権益の拡大しか図っていないという下りだけだった。この意見には賛成だ。
新国立競技場の建設現場の主任が、現場で自殺した事件。朝日新聞のウェブ版だったが、人の自殺記事を有料で配信する根性に感心したのと同時に、新国立競技場の建築現場がゼネコンにとってうまみのない現場になっているから、主力の人材を投入しないのだろうなと思った。先輩たちは、持ちたくないのだろう。
道路を横断するときに、車が来なければ無視してよいか否か問題だが、はっきりいって、信号を無視する人は、渡るときに左右も見ていない。罪悪感から何も見ていなくて、颯爽と渡る自分をアピールすることに腐心してしまう傾向があるので、信号は極力守った方がいい。私は運動をしていて、息が上がっているときは冷静に判断できないとして、信号は必ず守る。
比例の東京で、立憲民主党が自民党に続いて二位になったらしい。面白くなってきた。
坂上忍が嫌い、という意見について。
有吉と比較している。有吉はこちらの「わらっちゃいけない」という悪魔の心をくすぐるから面白いと思う。坂上忍の件はたぶん、バイキングのなかの出来事だろう。あの番組を一回でも見ると分かるが、あの番組おける坂上忍は「主婦を中心とした視聴者の意見を代弁する司会者の役」を演じているのであって、本気で思って言ってることはほとんどない。優秀なまでにポジションを固定しているのでわかりやすい。あれは苦笑しながら見るものだろう。と、一度として最初から最後まで見切ったことのない私が言う。要するに、視聴者(特に中年女性)は桑田の次男など興味もないし、知りたくもない、ということを代弁しているのである。
小説がエンタメの中心から消えるかも?
中心じゃない。すでに。ただ、それを原作に映画やテレビドラマが未だに作られている以上、ストーリーテラーとしての書き手が不必要になったわけじゃないだろう。小説が復権したかったら、値段を下げるよりない。
なんてことを読みながら、つらつらと考えていた。
現実逃避である。
ようするに、宮崎勤事件から普通の我々が得られる教訓はほとんどないということだ。教訓とは事件を防ぐための処方のようなものだ。
もちろん、事件後のマスコミのあり方などは問題が多くある。
先日宮崎勤事件の再現ドラマが放映されたらしい。
ちょうどテレビをフジテレビにつけたとき、ダンカンが演じている宮崎勤の父親がマスコミにだまされるように、息子の部屋を見せることを了承した下りだった。即テレビを消した。
事件後、ご承知かもしれないが、宮崎家は一家離散に近い目に遭う。兄弟、親戚、みな職場を追われる。父親は地方で小さな新聞を出版していたが、被害者の方に一円でも多くの賠償を出そうと会社を畳む。それで工面した金はそれほど多くなかった。それを被害者に渡してから、父親は橋から身を投げる。
そういうことを知っているから、トラウマになりそうで切ってしまった。
宮崎勤自身が起こした事件に関しては言うまでもなく、鬼畜な凶行である。それは間違いない。しかし、それと家族は関係ない。ただ、記憶では名字を変えて親戚一同は暮らしたらしい。婚約は破棄され、職場は追われ、ろくな事はない。
育て方が悪かったというのであれば、どこがどう悪かったのか、父親自身が教えてほしかっただろう。
子どもに逃げろと教えても限界がある。どうしたら防げたか、という問に対する答えはないような気がするのである。
ドラマでは宮崎勤の肉声が公開されたことが目玉であったらしい。
宮崎勤の肉声を聞いて、何があるのだろう。