「FF外から失礼します」とはツイッター上の常套句らしく、数年前から流行っているそうだ。FFとはフォロー、被フォローの関係を指すらしい。つまり、「SNS上で許可しあった仲ではないのに、話しかけて申し訳ない」という意味だ。
ツイッター上で議論などが行われている時などに使う。逆に「FFじゃないのになんだ」という反論までなされるそうだ。
なんか、背筋の凍る話だと思った。
なぜか、東日本大震災のときのことを思い出した。
当時私は東北ではなく、千葉にいた。
それでも、マンションが古かったのか、昔海で地盤がゆるゆるだからか、たいそうな揺れを経験した。
住民のなかには、原チャリ用のフルフェイスを被って、泡を食って階段を降りたものもいた。
私も一瞬迷ったのだが、ものすごい長い揺れで、書架にあった本やDVD、CDは畳に落ちたのだが、それを見て一応マンションから出ようと思って、フルフェイスの人のあとを追って階段を降りてエントランスから出た。
エントランスにはガラスに囲まれた石灯籠があったのだが、倒壊して周囲のガラスをめちゃくちゃにしていた。エントランスの床はタイル張りだったが、歪んで隆起していた。いまもそのままだ。
後に改修するのだが、外壁にもヒビが入っていた。
エントランスには小さな娘さんを連れたパパさんと、フルフェイス、そして私が出ていて、心配そうに様子をうかがっていた。電線で余震を確認し、周囲を見ると電柱が曲がっていた。
もしかすると助け合う必要が今後あるかもしれない、と思い、近くにいたパパさんに話しかけた。心配ですね、と話しかけても、無視。もしくは適当な返事だった。あきらかに話しかけられて迷惑だといわんばかりの態度だった。
地震があったのが三月。その年の夏までにその親子(もちろん、母親もいた)はそそくさと引っ越していった。部屋の位置から判断するに、マンションのなかで一番強度が弱い所だと思う。一番したの階は、エントランス。支柱はあるが、壁はほぼガラス張り。強度はその分だけ低くなる。よっぽど揺れたんだろう。
それにしても、こういうタイミングでも助け合おうとしないというのがショックだった。
「FF外問題」もそうであるが、話しかけてもいい人間を許可制にするということは、こういう感覚に支えられているのだろう。
とある記事では、それに対して、「この感覚について行けない方が古い」と断じていた。しかし、三〇年近く日本社会はゆるやかに退行しているように感じるので、「新しい=すばらしい」という図式は成り立たない。それは前提として書いておくが、要するにこの「古い」というのは「だめだ」ということである。読んでいて、「どうなんだろう」と頭のなかに疑問符がいくつもうかんだ。
189件のコメント https://t.co/dRIfo4q0RM “「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)” https://t.co/wyyZ8XgG9U
— masarin_masarin2 (@MasarinMasarin2) 2017年10月29日
町中で突然話しかけられることは確かにある。が、それはたいていお年寄りである。若い人で話しかけてくるということもないわけではないが、少ない。確かに、この「新しい感覚」に支えられているのだろう。もっといえば、妙に強固な帰属意識が存在するのだろうと思う。学校か、職場か。その軛(くびき)を共有するものでしか、話しかけてはいけないのだろう。
何も、そんなものをSNSにまで持ち込むことはないじゃないか、と思う。
大学生だった頃、帰る途中、総武線の快速のなか、細長いバタピーの袋を片手にワンカップを飲んでいたおじさんがいた。いまもそうかね。
ボックス席は妙な旅情をさそうのか、そういう人が結構いた。
おじさんは「兄さん、食べるかい」と言って、バタピーをくれた。
それを食べながら、「兄さん、学生かい」と世間話をした。というより、一方的に話すのを聞くのである。まったくの雑談だったので話の内容は忘れてしまった。が、「今を楽しみなさい」と言われたことと、バタピーの味だけはおぼえている。
なにか事が起こったときに協力し合えるからいいではないか、といっても、それは常日頃から協力体制を取れる間柄でなければならない。
だが、それでは知らない人間がこまっている場合、救わないということになってしまう。お互いに気軽に話せる環境を普段から整備するということは案外大切なのではないか、と思うのである。
それに。
「はじめまして」
とか
「こんにちは」
で十分じゃない?