カミサンのパソコンで古文の文章を打っていた。ATOKならまだストレスがない。「文語入力」モードがあって、江戸時代くらいの古語なら対応してくれているからだ。しかし、マイクロソフトのIMEはすばらしくストレスがたまる。
これに加えて、その人(つまりカミさん)の変換癖が加わる。自分のパソコンであれば、これまでに学習した内容をリセットしてしまえばよいのであるが、他人のパソコンではそうもできず、いらいらしながら打った。
これからは、AIが家庭にもどんどん導入される。言語入力もキーボードはもちろん、音声入力の精度もどんどんあがるだろう。我々の言語能力を推し量って、聞こえづらかったり、キーボードの入力ミスもどんどんAIが「忖度」するようになっていくのだろう。そうすると、今以上に他人のデバイスなんて使いづらくなってしまう。
もうすでに中学生くらいになると、キーボードの方が文章が書きやすいらしい。書いていて思いだした。手書きだと、一行しか書けない読書感想文も、キーボードなら内容が稚拙ながら長文を書くことができるそうだ。文章を書くという行為はデバイスに左右されやすい。キーボードなら、打ちやすい位置にあるキーを優先的に使用し、変換しやすい言葉を自然とチョイスするようになる。
ためしにそこのブログを書いているあなた! 手書きで記事を一本書いてご覧なさい。おそらく言葉がすらすら出てこないから。
教育界はどんどん紙を使用しない方向に進んでいる。
教育を産業化するのだから、政府は高価な機械を導入したがるが、失敗する公算もある。
こちらでは2014年の取材であったが、いろいろと示唆的なことが書かれていた。
日本の一斉に行う形の授業には向かない、国語にはあまり効果がない、らしい。韓国で一斉に導入されたあと、こういった批判が出て、全面的に各教科で使用されていたものが、三,四年の社会、理科に限定されたそうだ。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
コンピュータの使い方を学ぶのはいいけれども、それをなんでもかんでも当てはめるのは無理があるのだろう。
これに、子ども一人一人の個性が加わる。
アクティブラーニング、ACT、なんでもいいが、結局そのやり方がその子どもの個性に合っているかどうかが一番大事だ。「合ってない」となったときに、方向転換できる教育が一番良い。従来の一斉に行う授業が向いているものもいるだろうし、一対一の教授がいいものもいる。もしかすると、自習で進むのが向く人間もいるだろう。
方向転換できれば、と思うのであるが、そうはならないだろう。