pieceさん、コメントありがとうございます。呼び出すことはできないのかな。呼んでいただけたら幸いです。
お返事が遅れまして申し訳ない。
さて、今回はpieceさんの質問に答える形で書いてみましょう。あまり体調がよろしくないので、簡潔にいきます。
おそらくpieceさんは本当の理由が知りたいというよりも、そこにどういう隠喩があるのかが知りたいのだと思います。私が以前に書いた「錬金術v.s.科学」という隠喩で見るとどうなるか、ということなんだと思います。それに即して考えてみましょう。
カルシファーの質問が難しそうですね。
1,ソフィーがおばあさんになった理由
ソフィーは帽子屋さんを営んでいます。しかも、女性。こう書くとわかると思いますが、ソフィーは本来は科学側(近代側と言ってもいい)の人間です。ソフィーという名前自体も知恵を現します。その彼女にいじわるをするために荒れ地の魔女(錬金術師側)は呪いをかけます。もちろんソフィーを囮にしてハウルを動かすためかもしれませんね。
あと、ソフィーはカルシファー(悪魔で魔法を象徴)を使うことができます。
二つの関係を総合すると、ソフィーは錬金術と科学の境界にいる人間なのです。いわば、ナウシカです。
境界にいる人は同情されます。ナウシカのように悲劇に見舞われることが多いからです。同時に反感も買います。どちらにも付かない人間というのはそういうものです。だから呪いをかけられたとも言えます。
この境界にいる人間、狭間にいる人間というモチーフは宮崎駿の作品でよく使われるものですね。「風立ちぬ」もそうです。「となりのトトロ」もそうです。「もののけ姫」もそうですね。
ただ、隠喩を外したほんとうの理由は「おもしろいから」でいいと思います。あんまりディテールに隠喩をあてるのは良くないかもしれませんね。世界観全体の設定に隠喩を探すのはいいですけど。
2,ソフィーとハウルが愛し合う理由
最終的にハウルは人間に戻ります。カルシファーから心臓を取り戻します。その代わり別の人間がカルシファーと契約します。これは後段出てきます。
その理由は結局、ハウルが科学に負けたからです。つまり、錬金術が魔法を失うこと、悪魔と契約が完結して人間に戻ること、それらの象徴が二人が愛し合うことなのかもしれませんね。また、ナウシカにハッピーエンドを味わわせたかったからかもしれません。いや違うか。もう少し、後で詳しく説明します。
本当は好きに理由はない、いいんですけどね。
4,城の動く理由
魔法使いは、悪魔と契約してその力を得ています。
カルシファーはその動力源の悪魔です。
火を操る必要がある局面は家事でもあります。
魔法である火を操ることで、昔の主婦は家、城を動かしているということでしょう。
そうそう、ソフィーは呪いにかかりおばあさんになることで、昔の女性に戻ったともいえます。子ども(マルクル)も得て、一生懸命家事に励むソフィーの姿を、帽子屋を経営しているときのソフィーの姿よりも溌剌とさせて宮崎駿は描いています。
そんなソフィーにハウルは惚れます。
女性蔑視ではないでしょう。溌剌としている女性が宮崎駿は好きなのかもしれません。ハウルと宮崎駿は昔気質の人間なのでしょうね。
3,終盤に城を移動させる際にカルシファーが城を一度出る理由。
これが難問です。
この話は、「錬金術v.s.科学」の図式だと書きました。
この図式が終了するということは、近代が始まるということです。
この動く城とは「前近代の家」を象徴しています。
荒れ地の魔女が妙な物をカルシファーにくべることで弱まります。これは産業の発展を意味します。そこから魔女は懸命に煙草を吸います。この煙草は公害です。魔法である火に妙な物をくべたら、公害が発生したのです。だから皆がこの煙草を忌み嫌います。ただ公害を出している当の本人は思考力が低下しているので、悦楽の表情で吸っているのです。これが現しているのは近代が家の中に入ってきたということです。
そして男は科学の世界である外で戦います。科学の世界では錬金術師はただの野蛮人なので、ハウルは獣の姿になってしまいます。ハウルは「守る物ができたから戦う」と言って外で戦っています。守る物とは、「前近代の家」です。
これを終らせるためには、家の中を完全に「近代の家」にせねばなりません。ハウルが守りたがる「前近代の家」をなくせば守る必要はなくなりますね。だから一度カルシファーを城から出し、「前近代の家」を崩壊させ、もう一度なかに入れることで「近代の家」を作り出すという作業をしようとソフィーは考えます。
さて、我々が強くイメージする家庭のイメージはたかだか明治維新後にできあがったものです。その基盤は家父長制です。父親が外で働き、母親は主婦として家を守る制度です。もちろん、武士の家では江戸時代も家父長制です。しかし、一般の家庭はそうでもなく、女性も働いています。我々は明治政府のせいで、自分たちの昔のイメージを江戸時代の武士に連結させて考えがちです。そのイメージは間違っています。
それが「近代の家」では、家父長制に固定されていきます。
ソフィーはカルシファーを一度出し、もう一度城に入れたときに、悪魔であるカルシファーと契約を交わします。それは自分の髪を差し出すことで完了します。それは心臓を差し出したハウルほどの魔法は使えないけれども、火を操る能力を身につけたということでしょう。だから、カルシファーは死なないのです。
この一連の作業を表現するために、一度カルシファーを城から出したのだと思います。
ただ、私的解釈なので妄想に近いのですが。
これはおっくうなので確認しませんが、ソフィーは近代に関わるときに若い姿に見えるようになっている気もします。細かく確認いていませんが。
最後、お父さん、お母さん、子ども、ペット、介護のいるおばあちゃん、という図式ができあがりますが、本当に「近代の家」そのものですよね。
疲れたので説明を終りますが、つうか、説明なさ過ぎ。
この解説を読んで、「女性蔑視的」とか言うのは間違っています。最近は一応こういうことを書いておかねばならないのです。
近代の始まりの物語を描いているというだけで、それがよいとか悪いとか考えてないような気もします。「紅の豚」では女性たちが溌剌と働く様子を描いていますしね。溌剌とした女性が好きなんじゃないでしょうか。
最後にあくまでこれは私的解釈なので、「違うんじゃネーの」と思っても仕方のないものです。