今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

三国志、孫乾--十分日記197

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劉備の配下に孫乾という者がいる。ソンカン、もしくはソンケンと読む場合もある。ここでは、個人的に馴染みの深いソンカンで統一したい。が、結局は漢字で書く。

この男、武将というより、内政官という印象が強い。いや、外交官か。

なにかというと劉備は、「孫乾行ってこい」と彼を各地の使いに出すのである。

どうしてなのか、と常々思っていた。

氏素性を知らなかったのだ。

 

鄭玄という、後漢末期の儒学者がいる。

何進や袁紹に何度も出仕を促されても出仕を断り続けた大儒学者だ。

これは個人的な雑感のうちの一つだが、儒教というのはなんとなく敗者の弁がつきまとう。伯夷・叔斉の逸話はご存じだろう。

二人は弧竹国の王子である。父は弟である叔斉に王位を継がせたがったが、兄伯夷を差し置いて王位に就くのを良しとしなかった。孝行息子である兄伯夷は自分が国を出ることで、父の思いを貫徹し、弟叔斉に王位を継がせようとする。すると、弟叔斉も国を出てしまう。

やがて周の文王の善政の噂を聞いた。文王は太公望が釣りをしているところへ出向いて、出仕を促した人。ものすごく子だくさんであった。倹約して国民を飢えさせないように気を配るなど徳治をした人だ。

だが、二人が会いに行くと、文王は死んでいて、時代の王武王が殷を滅ぼしに行くところだった。その馬車を押しとどめて、戦をいさめた。父が死んだすぐ後に戦を起こすのは良くないということだった。しかし、武王は聞かなかった。

その後二人は山にこもって、餓死する。「周の禄は食まず」ということだった。

 

儒教はこれを聖人としてあがめる。

正しい行いをしていない国に仕えるのをよしとしないのである。

この意味でも鄭玄は聖人的であった。もちろん、このほかにも多くの研究をしたらしい。その辺りは詳しくない。

 

私も初めて知ったときに驚いたが、孔子というのは生前、どの国にも仕官が叶わなかったらしい。孔子は春秋戦国時代に生きた人だが、このときは中国は大内乱期であり、儒教のようなそく戦争や統治に役に立たないものは倦厭されたというのがその理由らしい。が、孔子自体の風貌にも理由があったかもしれない。実は孔子、ものすごくデカかったらしい。こういう書き方をすると、マラの大きさのように感じるだろうが、もちろん身長だぜ。高所から高圧的に道徳を説く人間というのは怖いのだろう。

そういうこともあって、仕官が叶わず。だから、伯夷・叔斉のような人々を「良し」と思ってしまう。人情だなあ。

 

さて、話を戻す。

その大学者鄭玄にはもちろん、多くの弟子がいた。陶謙もその一人だった。その陶謙に譲られる形で徐州の太守になったのが、劉備玄徳だ。鄭玄の元から劉備に使えるようになったのが、孫乾だった。つまり、鄭玄の弟子である孫乾は儒者だったのだ。

鄭玄の名前も相まって、彼には儒者としての信頼、威厳があった。

だから、外交のときに役に立つのだろう。

そうわかって、孫乾という存在が腑に落ちた。

 

ちなみに鄭玄という人物、権威をほしがる袁紹などは必死に出仕を促すが、曹操のように帝ですら、権威ではなく機能を欲するような人物はほしがらなかったみたいである。

以前、諸葛亮の組織がなぜ弱体したかの私論を書いた。曹操の場合、自分を殺そうとした者でさえ雇う。唯才の凄みがそこにある。その結果、もう曹操は要らないのではないかというほど、人材に厚みができた。もともと中原には人が多かったのだが、その才能も黄巾の乱で地方へ散った。それでも、分厚い軍団を作れたのは、曹操自身のすさまじさがある。さすが、「非常の人、超世の傑」である。

 

ただ同時に細かく見ていくと、劉備という人をどうして曹操が脅威に思ったかもよくわかる。吉川英治はその辺りをうまく描けていないのかもしれない。好きだけどね。

 

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