世の中には運のある人というのは確実に存在する。
以前にも書いたかもしれないが、運があるというイメージは最後の最後で勝ち栗を拾うというイメージだ。追い詰められて、追い詰められても、最後に一つだけ大きな勝ちを拾う人、それが運のある人だ。常日頃から、くじ運がいいだの、競馬が強いだの、そんな素朴な人ではない。
項羽と劉邦なら、劉邦。
曹操と劉備なら、曹操と劉備。(諸葛亮を拾うというのは並大抵の運じゃない)
信長と秀吉なら、信長と秀吉。光秀は火中の栗を拾うタイプ。
信玄と謙信なら、両方ともちがうのだろう。
今もそうか、ある意味そうか。
昔のそこそこの国立大学に行く人というのは、そういう運のある人だ。どんなに家庭がすさんでいても、兄弟のうちなぜかその人だけ高度な教育を受ける機会に恵まれ、家庭が貧しいのに、大学に行かせてもらえる。そういう幸運なチケットを持つ人が存在した。
逆に同じ運のある人でも、運のある人たち、つまり家運のある人というのもいる。
今は国立大学に行くのはそういう連中らしい。親が裕福で、教育を十分に受けられるチャンスを得られる人たちだ。
そういう人たちの凄さは、その後の人生でも発揮されて、自分の苦手な部分を補完してくれる人が登場したり、仕事の上でも「それってラッキーじゃん」という幸運に恵まれる。普段蔑まされていても、そういう機会がやってくる。不思議と言えば不思議な人たちだ。
ちなみに私は両方とも持っていない。
いや片方は手放してしまったと言っていい。
親が放埒をしすぎて手放してしまったのだ。
うらんじゃいないが。
疎ましくはある。
それに私の人生は私の人生、親の人生は親の人生。
そんな親に育てられた私に家運などあるはずもなし。
と清々しく生きたいと思っている。
我々、そのような運を持たない人たちをどう見分けるか。
それは相手の年齢にもよるが、きちんと人材評価の観点をもち、見た目などにだまされずに冷静に評価することだ。
もしかすると、学歴的にたいしたことがなくても、そういう運のある人というのも存在するかもしれない。なにせ、大人になってからは特に、そういうのはぎりぎりの局面でなければ発揮されないからわからないからだ。学歴というのはひとつの目安に過ぎないのだろう。
風采が上がらなくても、そういう運のある人はいるよ。
最近それを思い知った。
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※こんなの読んでも運なんて発揮されないぜ。