「ちょっと止めて」
ハザードランプを点けて、急ブレーキにならないように車を路肩に寄せる。夜の田舎道に後続車はない。
「ちょい後ろ」
「ええ? もう!」とひとりごちながら、ゆっくりと車をバックする。独り言になってしまうのは、彼女が聞いちゃいないからだ。
彼女は持っていた缶をエアコンの吹き出し口の前にあるホルダーに入れて、スマホを起動させた。夜の車内、スマホのバックライトは彼女の顔だけを明るく照らしている。子供みたいに小鼻が広がって、唇が尖っている。小鼻が膨らむのは、彼女がなにかを思案するときの癖だ。小鼻が膨らんだときは、なにを言っても無駄だ。頭の中では何かの言葉が無数に浮かんでいる。ときにそれは詩になり、小説になり、取扱説明書になり、誰かへの呪詛になる。今は取扱説明書かもしれない。尖った口がそう言っていた。長年付き合うとそういうこともわかってくる。
思案がまとまったのか、おもむろにカメラを起動して、正面を撮った。
「そこ火葬場の前だよ」
「ああ、そうか」
と言って、はにかんで笑った。
二人がいる田舎道は、市の北から中央を通って、市の南に突き抜けていた。市のはずれには火葬場や街中にあると不都合なものを並べていた。
「なにか写っちゃったかな」と嬉しそうに写真を確認する。右手はホルダーから再び缶を取り上げた。白地に青色の小花が書かれた缶だった。スピードメーターの緑色の電灯が彼女の右手の華奢な指先を照らした。指先は青色に染まっていた。いつか、その青を「ブルーマイカ」だと言っていた。「イカの匂いのするブルマ」と言ってからかったら、本気で相手にされなかった。
「ちょっとちょうだい」
私は彼女が握る缶紅茶にちょっと嫉妬して、缶紅茶から彼女の右手を奪った。
「うげ、甘い」
一口飲むと異常な甘さだった。
「いつもどおり甘いよ。前もそう言ってたよ」
返して、というように右手を差し出すのだけれど、ちょっと躊躇した。
「なによ、飲まないくせに。いいじゃない」
「写真なにか写ってた?」
「写ってた」と言って、必死に笑うのをこらえていた。
車のハザードランプを止めて、右折のサインを出して、ゆっくりと車を走らせる。後続車なんて来やしないのに。絶対事故は起こしたくなかった。
車を出した後に、「ほら」と私の前にスマホを差し出した。暗い車内で光るものを目の前に出され、目が眩んだ。ハンドルを少しだけ火葬場のほうに切ってしまった。車は反対車線の方へ行きそうになった。「危ない」と大声をあげて、ハンドルを戻した。
彼女は、ケタケタ笑った。
なんだか変だ。「いつも」というより、「ここのところの様子」と照らすと妙な感じがする。なんだか、沈みがちだった。当たり前の話だが。
交差点で信号待ちになり、改めて写真を眺めた。
写真は左側に折れてゆく道路のわきに続く桜並木、その桜並木を街灯のオレンジの光が照らす。なぜか、手前になるほど街灯の光が届いていない。そこは闇と月明かりに照らされた青白い桜が浮かんでいる。青白い桜の陰影は何かに似ていた。
はっとして、彼女が握っていた缶紅茶を見る。
紅茶の缶の白い下地と青い花よりも、それを握る白い細い指と指先の青い爪に見入ってしまった。
火葬場のわきに立つ青白い桜も彼女の指先も、この世のものとは思えないほど、ぞっとするほど美しかった。
「なによ」
見とがめた彼女が問う。
「いや、なんでも」
再び、ゆっくり車を走らせる。
スマホを彼女の胸元に抛る。
暖房が利いていて、二人ともコートを脱いでいた。彼女は仕事帰りでピンク色のブラウスを着ていた。長い黒い髪は後ろで束ねられていた。
いつか「どうしてマニキュアがそんな色なの」と尋ねたら、指を開いて爪を見せ、「反抗期なの」といたずらっぽく笑った。
スマホはお世辞にも大きいとは言えない、彼女の乳房のなだらかな丘陵で柔らかくはねた。刹那、「うっ」とうめいた。
彼女は胸元にあるスマホを拾って、映る画像を見た。
「やっぱりだめね」
「ん?」
「見たとおりの美しさが写らないの。カメラが悪いのかな」
『きっとそれもあるんだろうけど、それをとらえるために機械であるカメラを使いこなす技術があって、プロのカメラマンはそれを学校で学んだりするんだよ。もちろんカメラの良しあしもあるんだろうけどね』と、くどくど説明しようとしてやめた。
そぐわない気がした。
「きっと美しさは一瞬でなくなっちゃうんだよ」
というと、彼女は顔を突き出して私の顔を目をまんまるにして覗き込んだ。
「なに、それ。似合わない」
彼女は破顔した。
それが最後のドライブになった。
彼女は別れる気でいた。それは少し前から私にもわかっていた。
花屋で働く彼女を、仕事終わりに夕飯を食べようと誘いだした。火葬場の前を通って、彼女の家の前についたとき、彼女は別れを切り出した。
どうして、と問うと、
「私たちの美しい盛りは過ぎたのよ」
と答えた。
この答えを聞いて、私は彼女をあきらめた。
きっとほかに男がいると思ったからだ。
桜前線のように、彼女は私のもとを去った。
別れて数十年経って、火葬場の前に行ってみた。別れてからこの時期にここを通るのは避けていた。どうして行きたくなったのかはわからない。
あの頃の彼女と会えるわけでもなく、あの続きがやってくるわけでもない。
桜前線は今年も同じように咲かせているようだった。
火葬場はいつの間にか廃業していた。火葬する人までいなくなったのか。
あの頃とおんなじ場所の自動販売機でホットの紅茶を買い、あのときとおんなじ場所で車を止めた。ふと近くに行ってみたくなって車を降りた。降りるときにライトを消した。ガードレールの向こう、一段下に桜並木がある。きっと、ここは土手で下は農業用水でも通っていたのだろう。
オレンジ色の街頭に照らされた桜並木の花は重たげに、その花を上下させていた。
青白く光る桜もあった。火葬場のわきの桜、幽鬼でもいそうな雰囲気だ。
徐々に近づくと、青白い桜の近くの土手に何かが立っていた。心臓がドキリと大きく打つ。「鬼」かと思ったそれは、人影だった。目を凝らしてみると、中年の女性が立っていた。こちらも闇に入っていて、向こうも気づいていないようだった。
女性はこちらに携帯のカメラを向けて撮っているようだった。一回目はフラッシュを炊いてしまって、もう一度撮り直した。画面で写真を取り直して、「ヒッ」とびっくりした声を出した。目を凝らして、こちらを見ているようだった。写真に私が写っていて、私同様に幽霊だと思ったのだろう。
私の姿に気づいて、かるく会釈をして、そそくさと帰ろうとした。当然、土手はガードレールの外にあり、土手からガードレールをひらりと飛ぼうとして足をひっかけ、歩道につんのめった。頭を打ったように見えた。私が慌てて助け舟を出そうとすると、その気配に気づいたのか、急いで車に戻って、発進させてしまった。車はブルーマイカだった。
青白い桜の花の下にその女性を見たときには、もしかすると彼女かもしれないと思った。が、そんなわけはない。お転婆なのは一緒だが、あの程度のガードレールで彼女がこけるはずもない。
車に帰り、紅茶缶のプルタブを開けた。
ミルクとアールグレイの甘い匂いが車内に充ちる。
一口すする。
思い出はいつだって甘い。
ベージュのスプリングコートを後部座席から取り、着込んだ。少し身体が冷えてしまったようだ。
ーー了ーー
(インスパイアされて書きました。ありがとうございます)