いまエンドロールが流れている。
フィル・スペクター? 出てたっけ。
調べると、最後ぶっ放すのがフィル・スペクターだった。
この映画自体は90年代後半に見たと思う。時期については正確ではない。
おそらくメキシコかどこかで麻薬を手に入れ、それをヒッピーだが金持ちの男にうっぱらって、大金をせしめるところから話は始まる。
主人公はピーター・フォンダ扮するワイアットとデニス・ホッパー扮するビリーの二人だ。大金はこれからの旅の友であるバイクのオイルタンクにうまく隠してある。
ここからニューオーリンズに向けてフルカスタムのハーレーで旅をする。
基本的にはロードムービーになっていて、途中、様々な人と出会う。同じくヒッピーで、コミュニティを作っている男や、弁護士の男、娼婦の女二人。
弁護士との出会いと別れが衝撃だ。
ワイアット、ビリー、そして弁護士のジョージ(ジャック・ニコルソン)はとある町の留置場で出会う。ワイアットとビリーは町のパレードに無許可に参加したという罪で捕まる。実際はハーレーでパレードの後からついて行っただけだ。ジョージは酒乱の気があって、暴れてつかまっていた。ジョージの言葉から、父親が非常に恐ろしい存在だということがわかる。それはジョージにとってだけでなく、町のもの全体にとってである。
ジョージは町を出たがっていた。
ワイアットとビリーはジョージを連れていく。
途中立ち寄った町で彼らは町の人間からは聞こえよがしの噂話をされる。
要するにヒッピーである二人が気に入らないのである。
長居するとろくなことにならないと三人は町をあとにする。
彼らは止めてもらえるモーテルもなく、野宿する。
彼らは自由を象徴している。ヒッピーとはそういうものだ。だが、その根っこにある伝統的なものの拒絶、ベトナム戦争を反対する立場、そしてボヘミアニズムは慎ましく暮らしている人々からは反感を買う。
そこらじゅうでマリファナを吸い、酒を呑み、働かず、セックスをむさぼる。自由に暮らしているのは野垂れ死にと背中合わせということだ(BY 花の慶次)。それは町で暮らしている人々の考えている自由とは違う。なぜか国体主義と背中合わせに存在する自由。それを信奉する人々にとってヒッピーは差別、迫害、排除の対象なのである。
野宿している三人は町で噂をしている人々から強襲を受ける。
ジョージは町の人々に殴り殺される。
ワイアットとビリーは死にはしなかった。二人はジョージを火葬する。
ワイアットは大金を持って帰るこの旅で自分は成功すると考えていた。だが、思いもよらない差別や拒絶、迫害を受けることによって、自分の旅の目的が達せられなかったと考える。
そして旅の夜、「オレたちはやったんだ。フロリダあたりで引退しよう」とはしゃぐビリーに、ワイアットは「失敗だよ」と言う。
ただのロードムービーで、途中途中、変な奴と出会う映画といえばそうなのだが、しつこくない身近な言葉やシーンに社会風刺が詰まっている映画だ。
このワイアットやビリーの感じている思いは今のインターネットでも多くの人間が感じているのではないだろうか。
「互助会批判」と「もっとブログを読まれたい」の狭間で - ジゴワットレポート
申し訳ないが、遅きに失した気がする。⓵は明確に存在した。いくつか見ていたが、みんな更新しなくなったねえ。②は楽しいんだけど、もうネットで距離が縮まるのが怖い怖い。
2019/06/19 19:45
もう「互助会批判」をしている者は、根底にあるのは自分と違う人間への嫉妬と恐怖でしかない。
今の世の中の根底にも、同じような差別意識が転がっているのである。
「お前のやっていることは差別だよ」そう言ったって、受け入れられないものなのだ。
言っておくが、痴漢を安全ピンで刺すって、「この人痴漢です」と申告するより勇気がいるからな。他人を攻撃するって、ものすごく勇気がいる。小さいころに殴り合いのけんかすらしたことないから、そういうのがわからないのだ。人を攻撃するのは勇気がいる。
要するに、先に「男を刺したい」もしくは「男を刺し殺したい」という気分が、モンスターフェミニストに存在するからそういう意見になるのである。
なんだかこういう世界を見ていると疲労が募るのである。