氣志團万博2019が行われた。
募金で一千万円超を集めた。
それは綾小路翔が責任を持って、被災者に届けるということだ。
開催前に批判が起こった。
このタイミングでやることないでしょ。
正論に見えてしまうことに現代の病理が潜む。
ボランティア元年というと、1995年だ。
この年の年始、阪神大震災が起きた。
被災地にボランティアが殺到した。
それは素晴らしいことだ。
しかし反面、被災地がなんというか、表現が難しいが、聖なる土地のような扱いを受けるようになった。
何かをやろうとすれば、「不謹慎だ」。
何かをしなければ、「不謹慎だ」。
自分が被災者で、自分のことを発信すれば、「不謹慎だ」。
間違ったボランティアのやり方をすれば、「不謹慎だ」。
メディアが暴威を振るえば、「不謹慎だ」。
最後だけは正解だが。
NHKだったか。
被災地で電話も通じてないところで、必死に入院している妻に連絡を取ろうとする老人を取材していた。どうするのかなと思っていたら、きちんと「私のスマホ使いますか」と貸していた。今までのパターンだとそのままカメラで撮り続けるだけだ。
何回か書いたが、昔筑紫哲也が「そのまま手を貸さないで、撮り続けることが正しい」ということを言っていた。それは嘘だ。何もしない方便になっている。どうしてそうするのかといえば、手を貸すことで被写体に変化を加える、からだ。本当は、監察という行為自体が変化を加えるので、そんなことを気にしていたら仕方がない。
話を戻す。
もうマスメディアのことを話していても仕方がない。
まったく機能していなかった。
組閣でもやってろ。
停電の戸数には街灯も入っていたらしい。
そんな空気のなか、氣志團万博は開催された。
当然「不謹慎だ」という声が挙がるのだが、何が悪いのだろう。
本当は大挙してボランティアがやってくるのではなく、観光客などが沢山やってきて、旅館やホテルに泊まり、釣りやマザー牧場を楽しみ、「はいチップ」と宿泊料以上の金を現地に落としていく。それを元手に復興してしまうという流れが一番である。
それが望めないから、ボランティアの方々の手を借りるのである。
そんななか、できるのであれば、氣志團万博のようなイベントで人を呼ぶのは大正解だ。
妙に「不謹慎だ」とみなが神妙にしていなければならない空気を感じる。
本当は、千葉県の農家が大挙して都内にやってきて、野菜などを売りまくる。お涙ちょうだいで売って、売って、売りまくる。それが本来なら正しいやり方だろう。
「いやあ、台風のおかげで儲かったよ」
と後に笑い合えることのほうが正しいのである。
関東大震災のときに人々に配りまくることで、復興後知名度を上げたのがカルピスだ。そんなワイルドさがなくなってしまったのが、今の日本の病理なのだ。
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