今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

世帯と個人ーー十分日記

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今人々の関心のある話題はやはり「10万円の所得保障」でしょうか。意外と財政を圧迫しないで可能なことにもびっくりしましたが、「世帯主がまとめて受給」というのにもびっくりしました。

 

この国のおもしろいところで、税金関係は個人ベース、社会保障は世帯ベースなんですね。要するに、徴収するときはとりっぱぐれがないように個人で管理し、出費するときは出費する資金が少なくすむように世帯で考えるわけです。いくら個人で病気で困っていようと、世帯にカネがあれば援助をしないということです。

 

今回の給付では、後者の世帯ベースの発想に、「近代の家父長制」の感覚が加わっていると思います。もう一つは、麻生財務大臣の意趣返し。

もちろん、世帯主がとりまとめれば、「うちはこういうのは受け取らん」と世帯主が言い出せば他の家族がほしいと思っても、受給が宇可能になるということで、出費を抑制できる、という考えもあります。

しかし、事務的な手間暇を考えると、出す政府側の負担は、世帯だろうが個人だろうが、さほど変わらないと思います。当初の「所得低下の世帯に一律三十万円」くらいの数に抑制できれば、事務作業は減るでしょうけど。

 

結局は、現政権の近代的な思想が入り込んでいるのだと思います。

この政権は、こういう近代的な思想と相性が良いみたいですからね。

 

また、麻生財務大臣自身の政権のときに、現金給付を全世帯にしようとしたときに、主に旧民主党議員や支持者から、「カネをお上に恵んでもらうのは恥だ」とかいう、妙ちくりんな理屈で、給付は止めさせようとしたということがありました。

勝谷誠彦がテレビでそれを連呼していたのをはっきりと覚えています。「そうですよね」と司会者も同調していました。

 

その当時はリーマンショック直後でした。個人的には正しい政策だと思いました。今もそうですが、金融政策が意味を成さないという現象がバブル崩壊後、ずっと起こっていました。

日銀が金利を下げても、市中に資金が回らないという状態が続いていたり、公共事業を増やしても、末端までお金が回らないということも起きていました。結局、銀行や企業などが中間搾取層になってしまっていて、国民一人ひとりにまでお金を回すことができないというジレンマが起きていました。

だから、一人ひとりにお金を配ってしまうという「コペルニクス的転回」は、正しい政策のように見えました。

今の「ベーシックインカム」の走りですね。

 

ただし、「ベーシックインカム」は反対です。福祉などの社会保障がなく、市場原理に全てを委ねると、ひずみが出るからです。「カネのないやつは死ね」という近代以前の状態に戻ってしまいます。それを弾力的に補完するのが、政府の行う社会保障です。だから必要なのです。

 

しかし、「ベーシックインカム的な政策」は非常事態にはやるべきなのです。

 

麻生大臣は、そのときの「お上にカネを恵んでもらうのは恥」と言われたことを覚えているのかもしれません。そして、「お前ら、恥なんだろ? 手を上げて恥をかいて恵んでもらいたいなら払う」と意趣返しをしているような気がしてなりません。

 

四月二十一日、広島県の湯崎知事が、「公務員に支給される10万円を県の財源として活用したい」と発言して物議を醸しました。最終的には取り消しました。ここでは、公務員の給付金を個人の物と考え、世帯での収入を無視しました。つまり、公務員が奥さんだとして、「奥さんの収入が減る」ということを仮定しなくてもいいですが、「夫の収入が減る」というのは仮定しなくてはいけません。

ということは、個人で考えているので、良いではないか、とお思いでしょう。ここでは意図的に公務員を妻と書きましたが、この知事さんは「収入は夫だけで、夫だけの収入で世帯が成り立っている」と思っているのではないでしょうか。つまり、世帯主義、近代的な家父長制に、やはり影響されているのだと思います。

ウィキペディアによると、第三子出産時に育休を取得し、イクメンとして有名になったそうですが、緊急事態にはやはり地が出てしまうのです。旧来的な思想の持ち主だったのでしょう。育休も「仕事として」やったのであったのかもしれません。

 

さて、こういう場合、家父長制や世帯で判断するのに反対しますが、これは固定の思想的な立場からの反対ではない、ということを明記します。国と個人のカネの流れを考えるとき、世帯ベースと個人ベースで考えることの差は冒頭で書きました。

 

冒頭の話とは別に、個人が政府にカネを払うときは「世帯ベース」、個人が政府からの給付を受けるときには「個人ベース」にした方が、個人が得をすることが多いからです。思想的な発想ではないのです。