コロンバイン高校で1999年に起きた銃乱射事件。
12人の生徒、一人の教師が死亡。重軽傷者24人。犯人の生徒二人は自殺。
この事件以降、学校などで銃乱射事件が増加していったように思う。嚆矢となった事件だ。
この事件からしばらく、アメリカの教育界は混乱状態に陥る。それまでに問題児だとマークされていた生徒が停学・退学になった。銃の形に似ているチキンナゲットを教師に向けて構えた生徒が退学になった。アホみたいな話だが、そんなことが結構発生した。
この事件で、マリリン・マンソンがやり玉に挙がった。
扇情的な歌詞と、醜悪なファッション、若者が当時夢中になっていた。
映画のなかでマリリン・マンソン自身のインタビューが流れる。
「恐怖を煽るメディア、その間に挟まるCM」について話す。
コロンバイン高校銃乱射事件の犯人は、凶行にいたる直前、ボウリング場でボウリングをしたいた。その点にムーアは矛盾を感じてしまう。
「どうしてマリリン・マンソンだけでなく、ボウリングに矛先が向かないのだ。どうしてボウリングのせいで凶行に至ったと誰も言わないのだ」と。
このあたりの矛盾を突く映画だから、「ボウリング・フォー・コロンバイン」というタイトルなのである。
どこにでもある話だ。日本でもそうだ。
巨乳の主人公の漫画が、エセ(という冠をあえてつける)フェミニストのやり玉に挙がる。だが、そんなものよりも、教科書に載っている伊勢物語や源氏物語のほうがよっぽど問題のある書物だと、どうしてやり玉に挙がらないのか、若い頃から不思議だった。より恋愛で問題を起こす輩やロリコンが出てくる話を、より強制的に読ませられるのである。問題がないわけがない。
不倫を叩くなら、不倫を扱ったドラマをどうして叩かないのか。あんなものを見ているから、人々は不倫をするのだ。そう考えても良いではないか。
映画中でカナダに取材に行く。
カナダでは狩猟などが盛んなのもあって、そこそこ銃所有率は高い。
だのに、カナダでは銃殺事件はさほど起きない。
この差はなんなのか。
アメリカで銃所有が肯定される理由がいくつかある。
人種の問題、暴力的な歴史の問題、など合理的な理由を崩していく。
「仮想敵」という言葉がある。
組織の外部に敵を作ることで、団結を図るという手法だ。
アメリカではその仮想敵を内部に作り、しかもはっきりとは目に見えない形に仕立て上げて、銃などの消費を煽っている。
今、新型コロナウイルスでまさにこれを食らっている。
ネットで陰謀説が出ている。新型コロナの脅威自体が陰謀だという話だ。
あながち完全な間違いではない(私は陰謀論が大好きだ(というギャグだと伝わってるよね))。そこに便乗している人間がいる気がするからだ。
もっとも、「自由にお稼ぎなさい」が信条な私はなんとも思わないが。メディアとグルメサイトと旅行会社と広告代理店と政府が、「Go To」キャンペーンをやっているのは間違いではない。
この映画は昔から嫌いではない。いやむしろ、この次の作品である「シッコ」とあわせて好きな映画だ。ちなみに「シッコ」はアメリカの医療制度の矛盾を叩いている。
社会的な矛盾をついている映画なのだが、最近は「正義疲れ」である私でも、ずっと見ることができた。それはどうしてなのだろうか。
それは、自分の権利を振りかざして人を殴っていないからだろう。これが一番大きな理由だ。基本的に他人のために動く。
コロンバイン高校の事件の生存者である二人が登場する。二人は男性で、体内に銃弾が残ってしまい、何度も手術を受ける。一人は歩けるようになり、もう一人は一生車椅子の生活だ。犯人は、Kマートという量販店で銃弾を購入する。二人の願いでもあり、Kマートの本部に行って、弾丸を売らないように交渉する。その交渉が実り、全米のKマートで銃弾販売を取りやめると発表する。
最終的に、全米ライフル協会のチャールズ・ヘストンという役者にムーアは直接会いに行って、謝罪を要求する。
要するに、マイケル・ムーアはこういう活動で有名になっているのはもちろんだが、それ以上の不利益な部分を顧みないでやっている感じがするのである。もちろん、もしかすると大金持ちかもしれないが。
コロンバインの事件が起こったすぐあとに、ムーアの故郷で六歳の少年が、同級生の女子を銃殺するという事件が起きる。その葬儀の様子などを主要メディアの記者が取材している様子が流れる。
「髪型が乱れる」
と、なかば笑顔で話す記者が、VTRで流れる直前に、神妙な面持ちに切り替える様子がばっちり録られている。もちろん、そのくらいでないと伝える記者の精神がやられてしまうのは分かっている。だが、その欺瞞が不快なのはまちがいない。
正義は他人のために使うもので、自分のためではないというのはもう古い感覚なのだろう。理解はしているけどね。