今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

受験のお作法ーー一〇分日記

スポンサーリンク

これを伝えたいなあと思っている人の受験がそろそろで、案外こんなことは学校でも塾でも教えてくれなくて、自分で思い付くしかないので、メモ書き程度に書いておこうと思う。

 

この記事は「受験のお作法」と銘打った。

といっても、受験室の入り方は右足からとか、受験が終わって会場の最寄り駅につくまで受験が続いていると思って油断しないで、とか書きたいわけではない。

 

知り合いから聞いたところによると、テストを解くうえで当たり前のことを知らないという例が、ここ数年で増えているのだそうだ。

たとえば、数学では「計算をしていって、あまりにも計算結果が汚いと計算ミスをしている可能性があるので、ミスを探すべし」とか、勉強をしていくうちに自分で気づくことだ。汚い数字とは、「30.6666666........」とか割り切れない数字だ。

しかし、絶対ではない。いじわるな大学だと、汚い数字のまま答えにすることがないとはいいきれない。あと、出題ミスだと、汚い数字が答えになることもあるだろう。ほぼないが。それゆえにリスクが高いので、学校でも塾でもわざわざ声高には言わない。

 

こういうことは作法として知っておくべきだ。

というか、勉強嫌いだと知らないまま、大学入試ということもあるらしい。

 

国語だと、「辞書的な意味のまま、言葉の定義が終わるわけがなくて、必ず筆者なりの付け足しが入る」というものがある。

「翻訳」を例にとると、翻訳とは外国語を日本語に直す作業だ。これが辞書的な意味だ。翻訳から展開して全く別の話に移行する場合はいいのであるが、翻訳の話だけで展開が終始する場合、上記の辞書的な意味が筆者の言いたいことになることはまずない。筆者がそこに意味を足していくのである。

この自然な法則を知らずに、「筆者の言う『翻訳』とは」と聞かれて、辞書的な意味を挙げる愚か者がいるらしい。しかも、自信満々の「ドヤ顔」で。これが参るらしい。

 

もっとレベルの低い例をとれば、国語で「選択肢でもっともらしいことを書いてあっても、本文に書いていなければ不正解になる」とか。これはさすがにどこかで教わるものだが、これも知らないまま来てしまうらしい。

 

歴史の年号は正確にすべてを記憶しなくてもいい、とか。

 

小学生やら中学生やらならば、まだ矯正が効くのだが、高校生にもなると絶望的らしい。総じてそういう高校生は、そこまでに間違っているところを矯正されるような、子どもからすれば厳しい指導を受けたことがない。だから、受け入れるまでにとても時間がかかり、矯正を試みた時点で大人は信頼を失ってしまい、すべてを直すことができないそうだ。

 

気をつけましょう。