三月から、思い立って日課を増やした。
なんてことはない。
近所の神社に日参することだ。
どうもジョギングなどの運動習慣が億劫になっている。こういう日課を作らないと、体を動かさない。きっかけは体調不良である。それで動けなくなってから、体を動かさなくなった。
このあたりの神社のなかでは結構格式の高い神社の一つにお参りしている。関東にお住みの方、特に千葉県に住んでいる人だと”あるある”だが、大抵そういう神社には源頼朝がらみの何かがある。石橋山の戦いで敗れてから、房総の南端に渡り、そこから千葉を北上した。その影響で史跡がたくさんあるのである。特定されてしまうので、書かないが、その神社にもそういうものがある。その神社の敷地ぐるりには、市の関連の建物などが囲んでいる。
一〇〇メートルほどの参道が本殿の手前にあって、朱塗りの門をくぐっていく。昔はもっと長い参道であったが、市に接収されたのだと記憶する。
朱塗りの門の脇には分庁舎とそれに併設された児童施設がある。施設の脇には遊具がある。ジャングルジムと滑り台だ。今は春休みなのか(コロナ禍に入ってとんと日付の感覚が薄れいている)、子供が大勢遊んでいた。時に、周囲の幼稚園や保育園、託児所の子供も先生に連れられて、遊びに来る。
「鬼さんこちら、あれれのれ」
聞こえてきて、吹き出しそうになった。
本来はもちろん、
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
である。
そうやって、目隠しした「鬼さん」をからかう遊びである。もともとは芸者遊びだったように記憶している。
それが、「鬼さんこちら」と自分で呼んで、「あれれのれ」と混乱してしまっているのである。
男の子か女の子か区別の難しい年代の声で、見ると髪の長い女の子だった。
お参りに行くと、数人が並んでいた。
この神社には日参する人が他にも何人かいる。
賽銭箱の前で日参する人がお参りを終えるのを待っていた。
数分の間、熱心にお参りしていた。右隣の人が入れ替わり、左に私が立った。
右側には六〇がらみの男性であった。
「・・・・・・ありがとうございます」
ありがとうございます、だけが聞こえた。
古刹はお寺か。
古社であるだけに、こういう人が多いとは思っていたが、予想以上に多い。周辺の住民の崇敬する人の多さには驚く。一ヶ月通っていて、日参する人に重複することがないのである。
最近、というよりもここ数年、宗教、いや信仰について考えることが多い。別に私自身が宗教に入ったわけではない。が、人間の営みにおける信仰心の有無の影響について考えるのである。