今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

松本清張のドラマに思うことや田辺聖子に思うことなど最近のことを適当に書く

スポンサーリンク

さる文章を書くのに飽きてしまったので、この文章を書いている。

こういうことはよくあって。

 

松本清張は、「交換方式」だったかな。間違っていたら、以下「交換方式」で書くから、各自正解の用語で脳内変換していただきたい。

やっぱり、同時進行で小説をいくつか書いて、飽きないようにしていたようだ。

氏は一日に書く文量が決まっていて、それ以上はびた一文書かなかったという。

「先人達の底力 知恵泉」で松本清張の特集が組まれていて、カミさんに頼まれて録画し、一緒に見た。そこでは、上記の「交換方式」についての紹介があった。下の一日に書く文章量に関しては、予備知識として事前に何かで読んでいた話だ。知恵泉で「交換方式」の話を聞いて、予備知識のために、「交換するほど書いていたか?」と不思議になった。

 

また、女性の編集者が担当になった場合、氏は態度がジェントリィになるらしい。遅刻をした女性編集者に、高級腕時計を買ってあげたりするらしい。これ以上の嫌みはないのだが、番組では美談として紹介していて、私の鼻から「ふふん」と鳴りながら、夏の夜の夕立前のような微風が吹き流れた。

 

男性の時には態度が変わったと思う。

フェミニスティックな男として紹介されているのだが、「フェミ男なら水商売の女の遊撃を英雄譚として書かぬだろう」と余計なことを考えた。フェミ男が間違えているなら、おのおの自分が思う正解を頭に描き、適宜置き換えて、解答用紙に記入してください。

 

勢いに乗って、NHKは戦争物と松本清張もののドラマをやっているのだが、どうして氏のドラマは映像化すると一瞬で三文ドラマのようになってしまうのだろうと、おもってしまい、そのまま「混声の森」を見ていたのだが、沢村一樹が医学部校舎建設予定地のライダーとショッカーが闘いそうな空き地にたたずんでいるところに、周旋した議員である船越英一郎がマツイ・ボウを持って登場し、やおらカルガモをボウで打ち抜いて、沢村と「なんだフラウ・ボウじゃないのか」と話しているところで、もういいよ、と独りごちながらテレビを切ったのだが、切ったところで私の生活にはまるで変化がないのであるのであるし、もう人生を変えてしまうようなすてきな作品との出会いはやってこないのだろうか、と泣きそうになったところで、Twitterの通知音が鳴って、涙がひっこんだ。

 

それに比べて、田辺聖子の「芋たこなんきん」の上品で、静かな上にテクニカルな感じで社会情勢を突っ込むところには叶わんなあ、と思う次第だが、それは今回とは別の話。

プロ野球延長のために「ねこ自慢」は延期しますと、ヒロシのぼっちキャンプの途中で字幕表示されるのである。

ホエイ豚おいしそう。

こういうのを見ていると、「真面目にコツコツ働いていれば良いことがある」と教わってきたが、浮ついた芸能人になって、人の揚げ足をとってでも名を売った方が、結局最終的には畢竟お得なのではないか、と思うのである。ただのオヤジがキャンプをしているだけで、お金が儲かる時代なのである。最終的には都育ちの比企ではなくて、田舎育ちの野卑な北条が勝つんだよ。あの北条時政の設定は関東人は爆笑してしまう。普段は嫁の尻に敷かれているが、荒事になると豹変する。もしも、「豹変するという言葉は良い意味に使うんだよ」とか思っている暗い君がいるのなら、適宜そこに適切な語を当てて、好きな子にでも手紙で送ってやれ。

あの普段と荒事のギャップがたまらないよね。台風になると海に見に行きたくなるよね。不謹慎でも。関東と関西の男の差だね。「板東武者は名が汚れるくらい、なんてことねえんだよ」みたいなこと言ってて、よく分かる話だと思った。

田辺聖子って、サザエさんの浜さんに似ているよね、と四十代前半でも分からないようなネタを入れる。そう、戦争中の田辺聖子に転生してしまうという話をやっていたが、やれ「田辺聖子が標準語じゃん。大阪の商家の娘なのに」とうちのカミさんが盛大にふいていて、そんなものか、と田辺聖子と役柄の女性にギャップありすぎだろ、とそこで私はふいてしまった。

そういえば、「○○女子」って、フェミニストハッシュタグ運動によって撲滅されたはずだよね、と思っていたが、それを言っていたファッション雑誌がしれっとそれを使うのをやめているのだと思うと、驚き呆れてしまうのである。と思っていたら、「料理男子」という文言がテレビに映し出てきて、涙が止まらなくなるのだ。男は所詮消耗品なのだろう。消耗品の心なんて誰も慮らない。