今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

2022年を振り返って

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今年はまったくもって、良い一年とは言えなかった。

昨年末と今年の年始の占いなんかをつらつら見ていると、運気は悪くなかったように思う。しかし、まったく逆の結果になった。

 

年始から母と叔母が入院した。

春には義理の母が入院し、亡くなった。

夏には私の網膜剥離が発覚し、入院と手術。

同じ術式で、日帰りの手術などもあるが、本当に日帰りが適切かどうかは分からないと思う。一番恐いのは、「移動」だ。歩くときに始めは眼帯を付ける。そうするとあたりまえだが、司会の半分が封鎖される。これが結構恐い。塞がった方の体が障害物に当たって気付くことも多々あった。

家まで帰るのもやっとだろう。

特に私のように家族の助けが得られない人は。

目薬を一日中点けなければならないのも、目の手術の特徴だろう。

 

 

その後年末に、私の祖母が亡くなった。

 

どんな一年なんだと感じざるを得ません。

 

葬式では、差別的な説教を親戚一同の前で喰らった。

「しっかりしなさい、病気が大変なのはわかるけど」という内容だった。「病気が大変だからしっかりできない」のだが、それが理解できていないと取った。いや、数十年ぶりにこれを喰らったという気分だった。なぜか私の周囲は、「体調が悪い」というのを、「言い訳」と昔から捉えた。体調が悪い、病院に行きたい、と言うと、結構強めに怒られた。「病気でも頑張りなさい」ということだ。病気だから頑張れないのだが。

故郷で全体的にこうであるとは思いたくない。私の親族だけだと信じたい。

20代の頃は、親族が持つ文化からのこの刷り込みに苦しんだ。20代は入退院と手術を何度か経験した。退院後も、2カ月に一度の外来で、医者の前で病状の話をしていると、言い訳をしているように感じてしまって、自己嫌悪に陥っていた。医者に自分のことを話すのが苦しくて仕方なかった。つい「大丈夫です」と言ってしまうのである。

「ああ、久しぶりだ」と説教を聞いて思った。これに苦しめられたと。だから、故郷とは距離を取ったのだと。そんなことを数十年ぶりに思い出した。その感覚から解放してくれたのは、なんと病院だった。

薬の影響で皮膚科に通ったときがリハビリになった。皮膚科は語らずとも、病状が目に見えて出る。だから、調子が悪いというのも説明しやすかった。「薬の影響で」と書いたが、薬が原因で皮膚の症状が出ているのか、薬のお陰でものすごい状態にならずに済んでいるのかが、判別できなかった。当然、医師の治療も手探りになっていくわけで。治療方法も、診察の回数も、選択させてくれた。これが良かった。毎週通っていた時期も長かったのも、良い影響をもたらした。看護師さんや先生とも仲良くなれ、次第に病状を話すのが苦にならなくなった。

皮膚科に通い始めたのは、病院時代に通い始めてから、10年は経過したあとだ。すっかり、故郷のあれこれは忘れていて、親族にも病状を素直に話しすぎていたのである。「病気はどう?」と聞かれたから、素直に「いやあ、今はこれで大変で」と全部話していた。全部言い訳に聞こえていたのだ。いい面の皮だぜ、オレ。

 

(嫌な言い方だが)『金を払って説教されるって、カルト教団の集会かよ』と本当に葬儀の場で思った。同レベルに落ちて、反論するときでもないので、言いたいことも呑み込んでそのまま放置して帰ってきた。

 

もう潮時なので、我慢をするのも止そうと思った。きっと彼らは、「私の祖母も死んだのだ」という事実を、忘れているか、隠蔽しているか、参加させたくないか、のいずれかの気持ちなのだろう。我慢をしないというのは、三つ目の「参加させたくない」を採用し、「忘れたのだろう」と半ば好意的な受け止め方をしないということだ。

切り離さないと、数十年前に苦しんだ状況に逆戻りしそうだ。

今後は、「歓迎されていない場にわざわざ行く必要もないだろう」ということで、最低限より少ない程度の接触しかしないと決めた。そもそも別の要因もあって、最低限の接触しかしていなかったのだが、していなかったのが正解だったということだ。

とても悲しいことだが。

 

今はなんとなく、腸の調子が悪い。精神的なものが出てしまうので、影響がないとは言い切れない。

 

次いつ書くのかなんとも言えないので、一年のことをまとめて書いておく。