お久しぶりのまさりんです。
なにはなくても、これだけはやっておかなければなりません。今回も短編小説の集いに参加します。いつもは制限字数いっぱい使って書くのですが、今回は短め。理由は後日。主催者様よろしくお願いします。
「月光」
夜になって、私たちは洋館に忍び込んだ。
洋館はバス通りに建っていた。お向かいは小学校で、夜間にスポーツ練習をするための巨大な照明装置があるはずだが、今晩は消えていた。高いブロック塀が通りに面して立てられていた。塀の上には、槍先のような飾りがつけられていた。見上げると槍先に似た飾りとその脇にクルリと巻いた植物の蔓のような形の飾りが付いていた。ちょうど正面に巨大な青く丸い月が浮かんでいて、壁も飾りも真っ黒だった。
扉が開かないのなら、上から忍び込もうと私たちは決めていた。サキが分厚い洋館の木製の扉にそっと手を触れた。意外にも、簡単に扉は洋館の方へ開いていった。私とサキは顔を見合わせた。サキはちょっと嬉しそうな笑顔を浮かべていた。夜になったバス通りに誰もやってこないことを確認して、二人で扉を開けた。大きく開けようと思うと、音がしてしまいそうだったので、そっと、二人が通れる分だけ開けた。
洋館を見ながら、後ろ手に扉を閉めて、歩を進めた。石畳を踏んでいるはずが、長く生えた草を足が踏みしめる感覚。視線を落とすと石畳の間から草が生えてしまっていて、それを誰も抜いていないのだろう。その様子を見て、噂が本当なのだと確信した。
お母さんから私は、この洋館が売りに出されたものだと聞いた。もともとは資産家の家だったのだが、投資に失敗したらしく、相続のときに相続税を払うために売りに出されたのだそうだ。どこにでもある話だ。
私の家族は、平成に入ってから移住してきた家族であり、この洋館の元持ち主のように、昔からここいらに住んでいる人たちとは没交渉であった。投資に失敗してからはこの洋館の元持ち主は、内に籠もるようになってしまって同じように昔からここいらに住んでいる人たちともあまり関わらなくなってしまった。その頃――一〇年くらい前かな――から、この洋館には、幽霊が出ると、お向かいの小学校に通う小学生の間で噂になっていった。昼間でも木立に覆われ、外壁が煤けた木材で、暗かったからだろう。住んでいるのかどうかもわからない洋館は子供たちにそう感じさせるには十分の雰囲気だった。
サキも私も、そんな噂を聞いたお向かいの小学校の卒業生だった。一度この洋館に入ってみたかった。
この間、二人で話していたら、そうしようという話になってしまった。そこから親にどう言い訳をしようかと算段した。主に私の親にどう話すかである。サキは父親しかいなく、父親が帰ってくるのはいつも、ずいぶんと遅かった。サキは父親に女がいると直感していた。「どうせ女と遊んでくるから遅くなっても大丈夫」と悲しそうな笑顔で言った。私は、「塾で自習するから遅くなる」というバレても仕方の無い嘘をついた。ついてから、どうして、「サキちゃんちで勉強する」って嘘をつかなかったのだろう、と後悔した。それが一番穏便にことが進みそうなんだけど。でも、サキちゃんにだけは迷惑かけられない。かけたくない。
サキが洋館の入り口の扉に右手をかける。左手には私の手が握られている。二人の手は、サキの胸に当てられている。ちょっとドキドキする。
どうせ開かないだろう、と思っていたが、扉はやはり簡単に開いてしまう。握られた手がピクリと振動する。サキも驚いていた。二人で目を見合わせて、小さく笑った。冬の青い月に照らされて、二人の口からポカリと白い塊が宙空に浮かぶ。そっと手で捕まえたくなるけれども、手を離すのはいやだ。
音がしないようにそっと扉を差し込んで、サキ、私の順番で身を忍び込ませる。後ろ手に扉を閉める。玄関ホールのようなスペースに佇んだ。小メインに幅の広い階段がある。階段には赤い絨毯が敷かれている。階段の上には満月の見える大きな窓がある。なんて存在感のある月だとさっきも感じたが、今日はスーパームーンだということに気がついた。ホールの左右には部屋に続く扉があった。
「すいません。お邪魔します。どなたかいらっしゃいますか」
私の手を胸の前で両手で握りしめて、サキは小さい声で尋ねた。不思議だ。「お邪魔します」というサキの言葉が呪文に聞こえる。勝手に入っても、怒られない気がする。お醤油でも借りようかしら。
「だれもいないよ」とサキの横顔を見ながら私が言った。
「そうだね」
「どうする」
サキはニコリと笑って、階段の方へ私を誘った。
階段自体は木でできているのだが、絨毯のせいで二人の足音はかき消される。二人で絡み合うように階段を上がっていく。窓の月がだんだん近づいてくる。上りきると、窓は二人の頭上にあり、外を見ることはできない。階段から左右に通路が続き、左右に部屋が続く。サキは右側に向かう。サキに引かれながら、通路につけられた手すりを軽く握る。使い込まれたものなのだろう。手になじむ。一つ目の扉を開くと、そこは寝室だった。ベッドはあるが、寝具の類いは片付けられていた。ベッドの向こうに大きな窓がある。窓から外を見たかったが、サキは次の部屋に行こうと私の手を引いた。何か目的でもあるのだろうか。
次の部屋を開けるとアップライトのピアノだけが置いてある部屋だった。私が部屋に入ると、後ろからサキがドアを閉めて、開けられないように外側からドアノブを強く握った。しばらく、開けたい私とサキで攻防が繰り広げられた。ようやく開けると、サキが楽しそうに笑っていた。「ちょっとやめてよ」とおどけて言うと、サキは「ゴメン」と笑いながら謝った。
サキも部屋に入って、二人で周りを見渡す。前の寝室とこの部屋は続いていた。そうすると、
「もしかすると、家族はお父さん、お母さんと、娘さんだけだったのかもしれないね」と予想した。
「うちと一緒だね」
とサキは言った。
ゴメンと謝ろうと思ったが、その前にサキはそのままピアノの蓋を開けたので、つい逸してしまった。鍵盤の高い方のキーを人差し指で叩く。ピンと高い音が静寂な部屋に響く。後ろにはスーパームーンの月明かり。正面には月明かりに照らされた、一面が青い小学校の校庭が見える。
「そのまま、お母さんがどっか行っちゃったりして」
死んだんだと思ってた。
「男作って」
もう一度、ピンと高い音を叩く。
「あたし、あたしが嫌いなの。だって大人になったらどうなっちゃうんだろうって思うんだもん。二人ともだらしなくて。きっとあたしもそうなっちゃうんだと思うと、やってられない気分になる。どうなんだろう、だらしないの二乗になるのかな」
このまえ数学で教わった、二乗を使ってそう言った。
どう答えていいか分からなかった。そうなるのかもしれないし、サキはサキなのかもしれないし。
「勉強だって、やったって無駄な気がするの。男作って逃げる母親に、数学なんていらないでしょ。そんな運命なら、やったってね」
確かに、数学に不倫を押さえる定理は無いと思う。それとも、もっと勉強したらそういうのも作れるのだろうか。
「サキちゃんは、サキちゃんじゃない。親は親だし。勉強に夢中になってれば、そういうの忘れられるかもよ」
「ストレスがあるのなら運動しろ」と言うテレビに出てくるアホな医者みたいで自己嫌悪に陥った。異性以上に夢中になれるものがないからお父さん、お母さんはそういう風になってるんだし。
「シンイチくんみたいに辞めちゃおうかな、学校」
『シンイチ』という名前を聞いて、私は不機嫌になる。シンイチは私たちの学校を今年で辞めるヤツだ。中高一貫の私立をドロップアウトするヤツ。ある日、サキがロートルの英語教師にいじめられて泣きそうになったとき、やり返したヤツ。たぶん、サキのことが好きなヤツ。
聞きたくないけど、この際だから聞いてしまおう。
「サキちゃん、あいつが好きなの」
聞きたくない答えを想像して、息を呑んでしまう。
「まさか」
安心して、大きく息を吐いた。
「カナちゃんの方が好き」
からかってるのかな。胸が大きく、速く鳴りまくる。
ふふふ、といたずらっ子のようにサキは笑った。
後ろから抱きしめてしまおうかと逡巡する。大切なものを失ってしまいたくないから。
「何か弾こうか」と、サキはか細い指を滑らせる。
重々しい旋律が鳴り出す。
私は窓の方へ行って、外の景色を眺めながら聞く。ウサギが跳ねていそうな、明るさを持った青白い空気が、一瞬にして重く変化する。何だろうと一生懸命に思い出す。ああ、そうベートーベンの「月光」だ。恋人のピアニストのためにベートーベンが書いたという名作。
そんないきさつを知ってか知らずか、彼女はこの曲を選んだ。私のために弾いてくれるこの曲。
私は窓を離れ、彼女の後ろに立つ。
後ろから、彼女の胸の前で腕をクロスするように抱きしめる。彼女は弾きながら、私に身体を預けた。私は彼女に受け入れられたのだと感じた。もちろん、一瞬のことかもしれない。スーパームーンが輝く間だけ。「月光」の旋律が尽きるまで。
――了―― (三五八〇文字)←Word調べ