池波正太郎をめざして

明日は明日の風が吹く

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「春の庭」柴崎友香 感想その2

2、人物描写のなかの「穴」

 主要な登場人物は三人。主人公太郎、西さん、巳さんである。巳さんの巳は部屋の名前である。そこから太郎がニックネームをつけた。

 それぞれに「穴」を持っている。西さんを「穴」というのは少々強引だが、共感する人は共感するのではないだろうか。

・太郎 父が五十代で死ぬ。離婚しているのだが、なぜか離婚した妻の描写はほぼなく、父との思い出に拘泥している。 厭世感が少しある。職業への感覚がよくも悪くもあっさりしている。そこで名のをなそうという気持ちもない。

・巳さん 旧家に嫁ぎ、その家でいびられ子どもとも離ればなれにされ、追い出された。 調度が質素な部屋に棲む。(物欲が乏しい。表面的には人当たりがよくても、生きる気力がないともとれる。もちろん、引っ越しが間近に迫ってきている話なので、片付けたあとかもしれない)

・西さん 高校時代に写真集「春の庭」と出会い、虜になってしまう。そのせいで、「春の庭」の舞台となった洋館が見えるアパートを選んだ。たまに、洋館の様子が見たくて、なかを覗いている。 最終的に母の介護のために、同居することを決意する。言い方は悪いが新しい「穴」に向かって旅立っていく感じがする。 三人ともなにかしらの「穴」が心に空いている。そして、ある意味その「穴」に行きを殺して潜んでいる。という感じもする。 この「穴」は喪失であろう。居場所の喪失、親の喪失、子どもの喪失、精神的な安寧の喪失、西さんの場合、時間の喪失だろうか。みなが心に「穴」を持っているのだ。

3、「穴」を塞ぐ?

 経済というのは恐ろしいものだ。

 いまブラック企業と呼ばれるような労働環境が、バブルまでもあっただろう。いまと同じように、家族に問題を抱えている人もいただろう。そういうものを80年代後半までは、気にしなくても良かった。 巳さんだって、侘しい暮らしをする必要がなかったかもしれない。西さんの場合、憧れの洋館をまるごと買えちゃったかもしれない。そう感じさせていたのが経済の好調だ。

 若い人には分からないだろうから(というものの、アラフォーの私にとっても子供の頃の話で記憶は朧気だ)例えれば、ワールドカップのときの人々の熱狂のようなものが、当時の列島中をおおっていたと思えばいい。俄ファンが増殖し、その前は知らなかったくせにネイマールの怪我に憤慨する人が出てくる。誰もが自国代表を熱狂的に応援する。要するに、熱に浮かされたようなものだ。

 悪いわけではない。そういうものだし、一時的であればそれでいい。書いてて私も信じられないが、妙な熱病が30年もこの国を冒していたのだ。よくバブルの頃はよかった、とかいう親父がいるが、あれは無知なだけだ。

 やがて、熱病から決別しなければならない時期がやってくる。 九〇年代からは衰退の一途だ。柴崎さんよりも若い人々は、社会人になってからそのサマしか見ていない。要するに、これからの人生がよくなっていくという感覚が得られないのだ。

 この物語で表現すれば、そこかしこに空いている「穴」は決して塞がらないという感覚を持っているのではないか。「そう簡単に物事変わるもんじゃないよね」というのがリアルな感じがする。 まるで、退潮後に取り残された武骨な岩肌を絶望的な気分で眺める磯の生き物のように。

 この絶望的な諦念というのが、現代のある年齢以下の人間の感覚であり、それをうまく描写している気がするのである。それが、抑制された展開のなかに、巧妙に埋没させたというのが、この作品の秀逸なところだ。 うまい例えではないが、ある意味、三浦しをん有川浩の作品の対局にある作品だと思う。どちらが上という話ではない。どちらもすばらしい。

 なにも解決しないし、なにも変化しない。ただ流されていく。少々ハードボイルドな世界が紺作品の世界なのかもしれない。 ただ、いまの読者がどちらを読みたいかと言えば、残念ながら前者のタイプだろう。現実がハードすぎて、フィクションまでハードなものは受けつけないだろう。それに、この作品はさっと読んで理解するというより、時間をかけて味わう作品だ。もしかすると、賞レース向きではないかもしれない。この点でもいまの読者には向いていないかもしれない。ただ、個人的には生き残ってほしい作家である。

 

春の庭

春の庭

 

 

 

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