新年明けましておめでとうございます。
どうにも暗い気分になってしまう年明けである。
20代は入院しまくっていて、ミレニアムの元旦も病院で過ごしていた。その頃はどうも自分は世の中と同じペースで生きていない感じがしていた。なんだかずれているのである。30代以降は、強いクスリを使用したこともあって、さすがに入院はせずに来ている。正確に書けば、入院しないように無理くり成立させているだけなのである。病巣がまったくなくなったわけでもなく、体調が完全によくなったわけでもない。体質の改善にもつながっていない。
2024年の正月はよく寝ていた。
雑煮を食べて、腹一杯になると昼寝をしていた。二日の朝に近所の神社に参拝に行った。不思議なほど人がいなかった。遠隔地である千葉にいるのであるが、能登半島の地震の余波なのかなと少し思った。
2024年は、一月一日から、大きな地震が発生した。
正月ということもあり、救助も報道も、全ての出足が鈍かった。報道に乗る被害者の数は日増しに増加の一途をたどっていった。自衛隊の出足が鈍かったことが批判されている。批判の先には防衛大臣がいる。
働き方改革は吹き飛んでしまうのだろうか。「自衛隊にだって正月はある」という方向に行きたいのではないのだろうか。「教師にだって人生があり、子どもの入学式を職場の入学式よりも優先するのは当たり前」なのではないのか。子育ては待ったなしなので、大災害でも子どもの熱の方が優先されるのではないのか。
日本はとても災害の多い国だ。この根本的な条件が、日本文化と社会の根底にはある。どうしてジョブ型ではなく、メンバーシップ型の雇用をやめないのも、「緊急事態」がとても起こりやすい社会であり、風土だからである。そのことが根底にあって、諸行無常や「水に流す」などの考え方があり、執着しても仕方がないという虚無感がある。また、組織の作り方も左右しているのである。
もしも、外国の方が観光などで日本に来ていれば、今目の前で起こっていることが一番日本社会や文化の根本を経験しているのである。しなくても良いのだが。皮肉なことである。
製パン企業がいち早く物資を輸送して、避難されている方に配っていた。「被災地への緊急食糧の供給を行うことは、食品企業としての当社の社会的使命と考えています」というコメントに、時に個人的な事情よりも公的な事情が優先されることもあるのだ、と感じた。
正月の特番で、今話題の松本人志の相方、浜田雅功がつっこみ芸人を率いた特番をやっていた。録画して、地震後に見たが、まったく見られなかった。はしゃいでいる様子に全くついて行けなかった。
恒例の元旦新聞購入も行ったのであるが、完全に興ざめして、読むには読んだが、根本の条件が変更されてしまったような心地がして、感想がうまく出ない。今年は割愛である。
年始から困難なスタートになり、山手線では女性による凶行があり、30代の男によって60代女性の線路突き落としなど、年末年始はとかく人心が荒廃するものだが、今年はそれに拍車がかかっている。
家人が地震のニュースにあおられて、正月から興奮気味になっていたことを思い出す。努めて冷静に過ごすことが大切なのだが、それができるかどうかわからない。